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恋愛的指向/性愛的指向などの細分化がLGBを解体する未来

更新日:2023年10月11日

アロマンティック/アセクシュアルのように恋愛的志向と性的(性愛的)指向に分ける二分法が、近々レズビアン・ゲイ・バイセクシュアルの語を解体していくのではないか。一部、すでに意味が変わっているようにも見える。


これまでLGBの“性的指向”というものは「好き」とか「惹かれ」で説明されてきた。これはへテロセクシュアル(異性愛者)のもつ性的指向が非常に大雑把なのと同じこと。


だがAce的二分法がLGBに持ち込まれると、バイセクシュアルの喚起する「セクシュアル」が性愛的指向のみを指すものと捉えられ、恋愛的指向を持つ場合は「バイロマンティック」などと表明されるようになっている。


一方で、レズビアンとゲイは変わらず「恋愛的指向」と「性愛的指向」の両者を保持したまま。

代わりに、恋愛的思考をもたないレスビアンは「アロマンティックで、レズビアン」などと呼ばれるのかもしれない(すでにそのような仕方で分けて名乗っている人は見かける)。


この場合、バイセクシュアルは性愛的指向だけを指すものとして意味が変わり、恋愛的指向も兼ねる場合は正確には「バイロマンティック・バイセクシュアル」というカテゴリーになる。


レズビアンやゲイの場合は、それ自体で恋愛的指向+性愛的指向といった意味を持ち続けるとしたら、代わりに引き算がおこなわれる。「ゲイでアロマンティック」「ゲイでアセクシュアル」というように、持たない要素を引くことになる。


すると、LGBは素直にそのまま並列表記が成り立たなくなるだろう。LGとBで包括範囲で変わってくるとしたら。




本来は、Aceが「持たない・無い」ものを細分化して説明するより、これまで「好き」をザルにしてきたヘテロ規範こそが真っ先に問われなければならない。


ヘテロのいう「好き」は、何も「恋愛的指向」と「性愛的指向」に大別されるだけではない(そもそも両者が厳密に分けられはしない)。例えば、家族になりたい、ずっと見ていたい、手を繋ぎたい、キスしたい、もっと喋っていたい、セックスしたい、電話したい、死に際にそばにいてほしい、などの無数の「好き」が、一貫して「異性」という特定の性別の相手に注げると思うヘテロ規範こそが、一体何のプロパガンダなのか?と問われるべきだ。

他方で好きは好きでも、友人関係に注がれる「好き」の相手は同性であるべき(逆にいえば、男女の友情なんて疑わしい)、という規範も意味がわからない。


この細分化をセクマイのコミュニティを起点として、その内部のアイデンティティ確保にために行われるだけでは結局のところ生きづらいだろう。


ヘテロ社会の性教育がまるでなっていないせいで、「思春期になったら異性にときめきます」といった曖昧なストーリーが個人の未来を、恋愛→結婚→(どこかでセックス)→生殖→家族形成、と一貫して規定していき、その間の相手とのコミュニケーションや同意とか、人それぞれの差異が抹消されていく。これでは自分自身の思考・指向・欲望などと向き合うことすらできない。


そのザルっぷりを打破できずして、セクマイコミュニティ内だけで「手を繋ぎたい相手の性別」と「キスしたい相手の性別」は違うことがありますよね、自分はこの指向は持っていますがこの指向は持っていません、などと分類・確認していっても大元が何も変わらないというか。


「昨今ではLGは恋愛的指向と性愛的指向を指すけど、Bは性愛的指向の説明です」とかやっていたくないな...。





(ただ、こういう話をするときは私の立場も考慮しなければならない。

結局のところ私はパンセクシュアルで、とりわけスーツケースワードとしてパンセクシュアルだと引き受けていて、なんでもあり得るしそれ以上細分化する必要がないという(なかば政治的な)立場だから言えてしまうのではないかと。「どれかしかOKではありません」という立場の人からしたら細分化作業が非常に重要なのかもしれない、とは思う。


これは同性愛コミュニティがプロフィールにタチ/ウケ(ネコ)と表記したがることに対してもそうだった。ヘテロ社会では男=攻め、女=受けとされているので、そのストーリーが適用されない同性愛コミュニティでは事前表明が必要なのかもしれなかった。


その点が理解できなかったのは、私がリバに近い、つまり相手次第でなんでもありな立場だったからで、「どれかしかOKではありません」の人たちは「タチ/ウケ」表明が必要だったのかもしれない。)

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