たった一人のために書くつもりだった。
ドメイン名ichbleibemitdirはドイツ語を知る人には伝わるけれども、i stay with youの意味で、つまりはmit dir を想定したのだから。dirの相手は途中で変わってしまったとはいえ、ずっと、明確に私と共にいてくれるはずだったあなた、を想っていた。
が、それを文章のなかに書き表すのはその人のプライバシーを侵害する(権利の話に止まらず、相手の内面をも)ことであり、暴力的な愛情表現であり、自分のエゴにしかならないと学びつつあった。
だから私小説もエッセイも封印、「トランス女性は女性です」とも言えない、何ができるかといえば、彼女ではなく私の方に誘き寄せればいいのではないかと。それもエゴイズムか。
もう最終原稿は郵送しました。だから私が死のうがどんな目に遭おうが、本は出版されるのだなあとほんのり穏やかな気分です。
たった一人のために、というのは文章の基本だと習った。誰でもいいから誰かに、ではなく、どうしてもあなたに、という。女神幻想、ベアトリーチェ(神曲)?どうしたってエゴだ。暴力的な愛情表現を卒業しなければならなかったけれど、それを実行しようとしたらなるべく自分単体の内面描写にするか、客観的なデータに基づいて理論を組み立てるしかないだろう。少なくとも私には。
すると、不思議な結果になった。
『トランス男性による トランスジェンダー男性学』は誰のためだろう?
かつての私、それに似た境遇の人なのだろう。
皮肉。
トランス差別をする人は読まないでください、と言えるほどのものでもないし、いやトランス差別に片足突っ込んでいる“当事者”予備軍の人こそ知った方がいいことも書いたように思う。私は知っています、トランス女性を差別する“(出生時)女性”のなかには、シス女性だけでなく、ほとんどトランス男性のような人もいることを。おそらく男性ホルモンを打った方が早く幸せになれるであろう人も、非トランスの顔をして差別に加わっていることを知っています(でも他人である私から「早く治療開始したほうが幸せになれるよ」とは言えない)。あなたは女性ではないのだけど、女性のふりをする以外の手段を知らないから、または正真正銘男性として生きていけるだけの覚悟も持てないから、どこにもいけずに、すでに先へ行った“当事者”を憎んでいる。
そして上記とは別件だが。
「トランスジェンダー」と一括りにされる人間の中には、シス規範的な(バイナリーといってもいいかもしれない)トランスと、そうではないトランスがいる。
「シスジェンダー」と一括りにされる人間の中には、シス規範的な人と、そうでない人がいる。だが、“シス規範的ではないシスジェンダー”の人々が、すなわち“トランスジェンダー”になるかというと、そうではない。そうではないはずだ。でも現実的にそういった人間は、自身も不具合を抱えているにもかかわらずトランスジェンダーだけが特別扱いを許されているかのように感じるようで、非常に距離感が難しいらしい。
私自身は“シス規範的ではないシスジェンダー”の男性として、それ同然の存在として、自分がやっていけるのではないかと想定している。だからもはや「男性」でもいいか、と受け入れることにした。Ftだと思い続けるより、ノンバイナリーだと自称するより、男性になってしまった方が楽なのだ。先に行きます。ごめんなさい。
トランスしきれないトランスフォビアの一人として、少なくともこの記事は面白かったです。かつて性別違和を少数の上役に打ち明けて就職したけれど、職場が(特に打ち明けた上役達が)あまりにも無神経だったので結局続けられなかった(セカンドレイプ的に○○は女性/男性だからと性別役割分業を言い訳や過度な期待にされて私は辛かった)。私は世の中で成功を収めたと言われる人々と同列にトランス出来ちゃった人々もトランスせずに生きられる人々も妬んでいる。私はまず私に不要なこの過度な妬みから捨て始めたい、今後どんな人間になるにせよアライのアライにはなり続けたいと思います。自覚は出来ていたけれど自身のトランスフォビアを文章に出来たのは初めて、ありがとう。さとみ