「残業と満員電車、どっちが嫌ですか?」
職場の女性とそんな会話をした。
私の答えは、時間的拘束を受ける「残業」に寄っていた。
彼女は「満員電車」と答えた。
それから、ああしまった、女性にとっての満員電車はよほど辛かったかもしれない(しかもその人は背が小さめなので圧迫感がひどいんじゃないかなどと立て続けに思い)、自分が「男性」にあぐらをかいたことを言ってしまったのだ、
という気まずさが一瞬だけ訪れた。
考えすぎかもしれなくとも。
世間的に「男性にさせられた」感覚が私には付き纏っていた。私が男性だと名乗り出たわけではない、トランスとしてのカムアウトはしていない、だが“あなたが”そう言うのだ。
私は幸運だった、と思う。
シス女性かシス男性として“読まれる”ことが多かったので、トランスジェンダーとしての可視化はほとんどなかった。すると、その(見える)gender に沿った話題は出てくるけれど、いわゆるsexの話題は出てこない。
しかも「男性」に見え出してからの私は、概ね「男性」ジェンダーと仲良くやっていけている。つまり、何も余計なことを考えずに居心地よく存在していられる。黙っていれば世界はするりと回っていく。
この快感!
私は自分のことを「男性」だと思ったことがないけれども、自分を「男性」だと仮定すると物事はうまく進む。
そもそもの話。
私が出生時に男児だったら、性別に疑問を抱いただろうか?
例えば、自分が女性かもしれないと思ったり、女性的な外観を欲したりとか、しただろうか?
いや、それは決してないだろう。
(私がノンバイナリーを名乗らない/れない理由)
そんなパラレルワールドがずばりトリガーとなって、別に現時点の私が「男性になって」しまっても後悔しないはずだ、と心を決めた。幼稚園生の時に見た夢だって、主人公は男性であるか、俯瞰しているか、そのどちらかだったじゃないか。
私はそんなに男性じゃないんですけどね、でも男性でいいですよ、という澄まし顔しながら、いくらかのシス男性もきっとそうなのだろう(彼らになんの覚悟が必要だったであろう?否)と思い込み、男性を愉しもうと。
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