LGBTという言葉を知ったとき、私は最初「B(バイセクシュアル)」だとわかった。それから、より範囲の広そうな「パンセクシュアル」ということでいいか、と落ち着いている。だが私のことはバイでもパンでも間違ってはいないから、どっちでもいい、くらいの気持ち。
(もちろん、「誰かを好きのなるのに、性別は関係ない」という広い意味合いよりも、厳格な基準を設けた方がしっくりくるようなバイやパンの人はいるだろう。男なら男らしく、女なら女らしい人が好きというバイセクシュアルの人とか、めちゃくちゃこだわりありますからね。)
そして、そんな適当さからしてみれば、昨今のセクシュアルマイノリティの細やかな分類に窮屈さを感じることがある。そんな話を書く。
●たとえば、レズビアン。
女性のことを好きになる女性、と説明してみよう。では、その「女性」とは?ふだん目にする機会のない、ジェンダーアイデンティティでしょうか、戸籍でしょうか、性器でしょうか、女性とみなされながら歩む経験でしょうか。なにが「女性」?
私はこういう話をわりとどうでもいいと思っているので、人生の旅路のなかで「女性」に接点をもつ人が「女性」の範疇にゆるやかに含まれうるのではないかと考えている。つまり、出生時、生育環境、ふるまいや外見などのジェンダー規範、アイデンティティなど、どれか一つでもかすっていたら、「女性」枠に入る(入ったことのある/入る可能性のある)人として見れるのではないか。
もしレズビアンだと自認する人が好きになった「女性」が、実は「(トランスジェンダーの)男性」だとあとからわかったら、その人のレズビアンアイデンティティは失われるべきだろうか?レズビアンを「女性を好きになる女性」と定義するなら、好きになったのは男性だったわけだから、もうレズビアンと名乗るべきではない、という話になるはずだ。でも、それは窮屈だな、と考えるようになった。トランス男性を「女性」としてミスジェンダリングしろという話ではない。ただ、人生のどこかの地点で「女性」の境遇を被って、その中に含まれたことがある人、くらいで全体を広い目で見てもよさそうだ。フェミニズムとトランス男性の接点も、そんなゆるやかさで時々「当事者」として協力体制を築けばいいのだろう。
もちろん、ジェンダーアイデンティティなんて言われてもしっくりこない人、ノンバイナリーの人などもいて、そうした人もたまに「女性」の範疇に足をかすることが現実あるわけだから、そこを「すべての領域において、自分を女性だと自認したこともなければ、女性として扱われたこともなければ、女性差別として挙げられる不遇を被ったこともありません」と言って、退ける必要もないなと。それくらい「女性」の「箱」は広くてよい気がした。「男性」とか「ゲイ」も同様である。
まあ今こう言えるのは、私の中から、居場所を見つけなければならない必死さがなくなっていき、幸運なことにのんべんだらりと生活できてしまっているからだとは知っているが。
(レズビアンというと、性愛重視の女性への「好き」がメインで語られがちで、だから女性と恋愛はするけど性的な話はちょっと......という「レズビアン」たちが日本で「ノンセクシュアル」という語を使い始めた、という小話は驚いたが、確かにわかる。レズビアンバーは性的な話題に向くことも多かったため。)
●たとえば、Aセクシュアルのコミュニティ。
恋愛的な「好き」と、性愛的な「好き」を分けて、それぞれの性的指向が「無い」場合、前者をAロマンティック、後者をAセクシュアルと呼ぶという。それが必要な人はそうすればいいのだろう。ただ、私にはわからないのだ。少女漫画など、これまでヘテロセクシュアル(異性愛)の物語とみなしていたものが、プラトニックなものであるならきちんと「(ヘテロセクシュアルとか異性愛と表記せず)ヘテロロマンティックの物語」と言い換えるのが筋なんだろう(だって、性愛の要素はそこに見えていないから)。よし、恋愛と性愛をわけると助かる当事者がいるのはわかった。
では、キスをしたい欲求は性愛に含まれますか?それとも、恋愛感情でしょうか。いや、友愛ですか、何なんでしょう。あるいは、ハグはしたいけど、キスはしたくないセクシュアリティにも名前は必要ですか?こう、いくつも細分化することは可能である。で、翻って、今度は「恋愛しない=Aロマンティック」と「性愛しない=Aセクシュアル」では足りないからもっと細分化したくなるかもしれない。私が知らないだけですでに名前はつけられているのだろうし。
●ヘテロセクシュアルの「箱」は大きい。
世を支配する「ヘテロセクシュアル」は、とにかくその「箱」が大きい。潜在的なヘテロ認定をかまして、そうではなさそうな人までその「箱」に含んでしまうのだから。たとえば男女で歩いていると、その二人が付き合っているように見えるかもしれない。ただ歩いているだけなのに。こうして、なんでも「ヘテロ」の箱に吸収してしまう。
先ほど例に挙げたレズビアンとか、Aセクシュアルとか、セクシュアルマイノリティはそうはいかない。「違います、ヘテロセクシュアルではありません」と主張しなければ、簡単にヘテロの箱に放り込まれてしまって、自分のセクシュアリティが抹消されてしまうのだから、みずから主張しなければならない。
そして必死に主張した結果、レズビアンの「箱」とか、Aセクシュアルの「箱」は狭くなっていかざるをえない。「女性とはこういうもので、だから女性でない人はお断りです」とか、恋愛至上主義の世間へ向けて「恋愛しない人もいます、性愛はまた別のベクトルですがね」とか主張しなければ、気軽に(潜在的な)ヘテロセクシュアルとして誤って扱われてしまう。
●私は、パンセクシュアルである。今のところは。
さて、私は一応パンセクシュアルだ。そういうことにしておこう。ただし、パンセクシュアルの「箱」はこれまで生きてきて無かったのではないかと思っている。だから、ほかのセクシュアリティに「間借り」してやってきた。
ヘテロセクシュアルの物語が流れていれば、たしかにそれも経験しうることなので「まあ、わかる」。ゲイの物語が語られれば、それも実感として「まあ、わかる」。レズビアンの物語も「まあ、わかる」。性別移行前は全体的に自分の存在を自分のものとして認知できていなくて、だから今ではバリバリの性愛者のはずだが、自分の性別が違和感だらけのときは他者との関係も宙に浮いていて、もし言葉を与えるのなら、Aセクシュアル的ですらあった。そういうわけで、ほかのいくつものセクシュアルアイデンティティとかコミュニティに対して、「まあ、そういうこともありますよね」とちょこんと間借りさせてもらっていた。
なので、ヘテロセクシュアルの「箱」がガバガバに広くてなんでも放りこめてしまうのは、さすがに広すぎるとはいえ、ある意味では助かっていたのだ。
ところが。ヘテロの強大な「箱」に負けじと自己主張しなければならない他のセクシュアルマイノリティは、「箱」が狭くなっていく。いえ、ここは「女性限定」で。では、「女性」の定義とは。ここは、「男性限定」で。では、「男性」の定義とは。はい、恋愛感情とは、こういうもので、ないなら「Aロマンティック」です。えっ、それは性愛的な欲求ですよね、あなたはよそ者です。
どんどん細分化されていき、間借り者は居場所がなくなっていく感覚。なるほど、ここは私が居てはいけなかったのですね。ああ。今までの思い出は何だったのだろう。ちょっと侘しい。でもほら、あなたは「ヘテロセクシュアル」のフリして生きていくこともできるんだから、そうやって「ヘテロセクシュアル」のどでかい「箱」にいれば安全なんじゃないですか?
どっちつかず。もはやそれでいいような気がしているので、パンセクシュアルの「箱」を新設するのは疲れてしまう。作るなら「ヘテロセクシュアル」の「箱」くらいガバガバに広げたい気もするが、しかしそれって「あらゆる人は、性別に関係なく誰でも好きになる可能性はあるでしょ?」という全性愛主義の流布になってしまうじゃないの。
なにが言いたいわけでもない。パンセクシュアル可視化の日は5/24らしいが、バイセクシュアル可視化の日9/23の前夜に思いついたので。
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