4月26日は「レズビアン可視化の日」でした。
いくつかのメッセージを目にした中、「一人でもレズビアン」というメッセージもありました。私は虚をつかれた感覚になりました。言ってしまえば、当たり前のことです。私も別の機会に同様のメッセージを見たことがありました。そりゃあそうだな、と思ったのでした。
独身生活をエンジョイしている異性愛者、はいますよね?戸籍上同性の場合はそもそも結婚できずに「独身」を強いられる状況になりやすいわけですが、別段、恋人がいなくたって、同性愛者は同性愛者です。一人でも、同性にときめいていたっていいし、興味のない時期があったっていい。そんなの、本来なら当たり前のことなのです。本体なら当たり前のことなのに。
「一人でもレズビアン」という表明には、私は別方面から勇気づけられました。
ふだん語ることもなく不可視化されている私の性の在り方、ポリアモリーであろうとすることについて、深く通じている話だったからです。ずっとうまく言葉にできず、慰められていなかった部分でした。
ポリアモリーとは、合意の上で複数のパートナーと関係を築く恋愛スタイルのことです。実践する人を、ポリアモリストと呼びます。
現代日本の典型はポリアモリーとは逆で、強固なモノガミーの制度と風潮によって成り立っています。「複数恋愛」を想定できない強固なモノガミー文化の住人からしたら、浮気と区別がつかないこともあるようです。関係者全員の同意のうえで信頼に基づいて関係を構築するわけですから、誠実さにかけては浮気とはまるで別物なわけですが。
私は「ポリアモリー」という言葉を初めて聞いたとき、ああ自分はこれだ、とすぐに気づけたのでした。「トランスジェンダー」という用語にはそのような俊敏な反応はなかったにもかかわらず、「バイセクシュアル」と「ポリアモリー」は、完全に“私のもの”という意識がありました。過去の私の在り方が、きれいに落ち着いて説明がつくように感じました。
けれども、私は現時点で一度もポリアモリーの恋愛スタイルを実践できたことがありません。「私は恋人が2人います」「3人います」とか「私の恋人には、私以外の恋人がいるんです」という状況になったことがありませんでした。だから常に、私がポリアモリーである/あろうとする、というのは真実ではないのではないか、という疑念が晴れませんでした。ずっと1人なのになぜポリアモリストなのか、なぜその自覚だけあるのか、と問われたらどう答えればいいのでしょう。
だから「一人でもレズビアン」という表明を目の当たりにしたとき、これはポリアモリーについても言っていいのではないか、とかなりの驚きを持って、気づかされたのでした。交際スタイルの在り方であるより前に、私にとっては、生き方や思想と根強く結びついていることだからです。
私はきっとポリアモリストなのだ、という“感じ”は、直接的に複数人と交際しなかったとしても発揮されていることに、私は薄っすら気づいていました。ただ、「実践できていないじゃないか」というストッパーが外せずにいたのです。
具体的には、たとえばこんな話が浮上します。
たとえ好きな人からでも、「あなただけが好き」といったアプローチは、純粋に歓迎できるものではありませんでした。「好き」の部分は確かにまごうことなく嬉しいのですが、別に私「だけ」を好きでなくてもいいのではないか、と若干のひっかかりを覚えました。また、私がもしあなた以外の人も好きになったらどう思うのだろう?という不安を覚えます。私はきっとポリアモリストで、一対一の関係性が必ずしも唯一解だとは思っていない、現状ではあなた一人ですが、と予め伝えていたとしても。
後から気づかされた私の癖なのですが、私は好きな人物に対して、「その人が過去に好きだった人」や「元恋人」のことを悪びれずに、抵抗なく聞いてしまうことがあります。要するに、「元彼とは何していたの?」といった質問を普通にしてしまう、ということです。一対一の関係性を尊ぶ人たちは、こういった“愚問”はあまりしないらしいのです。
しかも、私が昔想いを寄せていた人との大切な品物をずっと離さず持っていることも、現在進行形で関係を構築しようとしているモノガミーな人にとっては理解のできないことのようです。「わたしと付き合いたいなら、元恋人からもらった物はすべて捨てて」と指示するような人とは、私は合わないと思います。物に罪はないし、過去に関わった大切な人や物はそのまま現在の私の地肉になっているはずだからです。それを引きちぎって捨てなければならない理屈がわかりません。
あと恋愛的な関係の話から離れますが、「他者と比較する」ということが私には理解できません。一体何をしたいのか、何の価値があるのか。ポリアモリー的な価値観に照らし合わせると、「Aさんが好き。Bさんが好き。どちらの方が良いとか、どちらか一方を選ばなければならないということはない」ということです。
けれども、世間のおおよその場面では「他者と比較する」ことを強いられます。不幸にしかならない考え方をなぜ採用するのか、私には不可解です。あるいは、どちらにもある程度の魅力があるのに、どちらか一方だけを重視しなければならないといった考え方にも賛同できません。好意があっても批判はできるし、批判があっても賛同できる部分は一部あるかもしれないではないかと。
たとえばトランスジェンダーの話題で、身体治療をしたい人への医学的アプローチもすればいいし、治療とは無関係に制服の選択肢を広げたいという人にも賛同すればいい。何も対立していないじゃないか。
たとえばフェミニズムに賛同しながら、「男性にはこんな酷い現状があります」と訴える人の意見に賛同したっていい。何も対立していないじゃないか、と。念のため言い添えると、私は男性差別論者や弱者男性論者であれ、フェミニズムに親和的と指摘される男性学の研究者であれ、私の感覚で「しっかり納得できる」言説をフェミニズムとの関係性において残してくれた男性などいませんがね。
別段対立させる必要などない要素を対立させたがり、比較し、一方を貶めようとして、てんでどっちも良くならない、といった非合理的な足の引っ張り合いは見ていられるものではありません。
こういったものの考え方の根幹にも、私が「ポリアモリストである/であろうとする」意識が繋がっていると思っています。だから、たとえ現在進行形で複数恋愛のかたちをとっていなくても、私のアイデンティティはポリアモリーに紐づいているのだな、と安堵したのでした。
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