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性別適合後に「普遍論争」を拓き、引き裂かれる経験

トランスジェンダーとしての体験と、中世スコラ哲学における「普遍論争」の話をしよう。


※頼さんの邦訳「社会的に構築された概念としての性別(Jeffrey Lockhartさんのブログ記事"sex as a social construct"の日本語訳)」からひらめきを得たものです。直接的な脈絡はないかもしれませんが、ありがとうございます。※


●普遍論争とは何か?

「普遍」はあるのか、それとも普遍は存在せず「個物」があるだけなのか、という議論は古代からありました。とりわけ11世紀以降、西方教会のキリスト教神学者・哲学者らによって巻き起こった論争を「普遍論争」といいます。


「普遍はある!例えば、“人間”や“動物”や“犬”という普遍は実在する」と主張するのが実在論(realism)、

一方で「普遍などない!個別に、“私”や“あなた”や“ポチ”がいるだけだ」と主張するのが唯名論(nominalism)です。ここでは、その他細かい分類は省かせてもらいます。


普遍論争は、なぜ大問題となったのでしょう?

それがキリスト教の信頼に大きく関わる問題だったからです。


「人間」という「普遍」があるならば、初めの人間だけでなくすべての人間が、同じ「人間」として原罪を背負うことが正当化され、キリスト教の存在意義が見出されます。

あるいは、もし戦争で「日本人」が罪を犯したなら、その時代に生まれていなかった後世の「日本人」も、同じ「日本人」として償う必要が出てくることでしょう。「日本人」という普遍が存在するなら、当然のように。このとき「日本人」とは、いつからできた、どこからどこまでの範囲を指す概念なのか、疑問は残りますが。


では、もう一方の主張を見てみましょう。

「人間」という「普遍」が存在しないとしたら......?

たとえば「あきら」という個人は存在し、「あなた」という個人は存在します。しかし、「あきら」と「あなた」は別の存在ですから、何も同じ「人間」という括りをつくって同じように罪を負う必要など無いのです。つまり、教会は不要です。「普遍などありませんよ」という唯名論の主張に従うと、キリスト教会など必要がないと帰結され、教会の権威は一気に落ちることとなります。


私は何の専門家でもありませんから、雑すぎる説明はここで筆を置きます。これをトランスジェンダーの経験に当てはめてみたらどうなるのでしょうね。



●性別移行前、私は唯名論者に近かった

あまり深掘りできるわけではありませんが、私は大学一年生の頃から、うっすら「普遍論争」に関心がありました。

今ではすっかり忘れていたのですが、おおむね「唯名論」に賛同していたと記憶しております。私にとって、「普遍」など実在しないと思われたためです。なぜか。


当時の私にとって、他者はすべて「異性」でした。同じ感覚で接せられる者≒「同性」は、どこにもいないと実感していました。私は出生時に割り当てられた性別「女性」に帰属意識などありませんでしたし、またそれに対比させられる存在の「男性」としても、決して存在し得なかったのです。「男性」と名指される存在と、当時の「私」は外見も文化も丸きり別モノに思われました。あまりにも違うので、純粋に比較するような機会など無かったほどです。

私の居場所はどこにもなく、私はただどうしようもなくひとりでいる「私」を認めるだけでした。常に死を身近に考えていたため、生きながらえる存在としてみなされる「人間」(human being であれ、human doing であれ)に親近感などありませんでした。「人間」という普遍などあってたまるか、というわけです。せいぜい一つの存在に認められ得るのは、その一つの存在に過ぎないだろうーーーつまり「私」にとっては「私」しかいないーーーと思われたのです。


そういうわけで類するものなど認めず、「唯名論」に賛同していました。私の存在が何かの属性に規定され得ないのと同様に、他のものごとにも「普遍」を見出すことは原理上不可能に思えましたし、そうである以上せめて「具体的な個物だけ」ならあるといえそうに考えました。


●気づけば「男性」という「普遍」を背負っていた私

しかし身体的な性別移行を実行してからは変化がありました。

というより、変化が身に起きていることなど忘れるくらい鮮やかに、私は「人間」に、「大衆」に、「男性」に、紛れ込みました。驚くべきことです。私と男性ジェンダー(男性的とされる趣味、所作、身体など)は案外相性がよかったようです。


すると、個別具体的な「私」であるより先に、「男性」という普遍の一人として、私は世界に浮上しました。否、トランスジェンダーとして過剰に可視化されないで生活していくためには、「非規範的とみなされる一人のトランスジェンダーの私」という「個物」を必死に隠さねばならず、積極的に「普遍的」な「男性」に擬態していました。


「男性、集合!」といわれたら、「はい、私は男性ですよ」と素知らぬ顔して紛れ込むようになったのです。そしてその状態がーーートランスジェンダー用語では「埋没」「ステルス」とでもいいましょうかーーー持続しました。デフォルトになっていきました。「私」は「私」であるより前に、「男性」です。



ただし、このとき何が起こっていたのでしょう?

もし私が性別違和をもたない、シスジェンダーの人間だったなら、「男性」あるいは「女性」という「普遍」を疑うことなく、つまりは考える手間さえかけずに賛同していたのでしょうか。

私は男性ジェンダーに寄ることによって、生きやすくなりました。単なる「人間」として、世間の描写に合わせられるようになっていきました。ということは、私が初めからシスジェンダーであったら、「普遍はあります」と答えていたかもしれません。だって、「男性」と言われれば大体これくらいの身長で、ペニスがあって、声が低くて、Y染色体で、筋肉があって、周囲から男性とされる扱いを受けて、などと容易に「男性」のイデアを組み立てていたのかもしれません。「私」も、それらの「男性」の条件に合致するので、それは私が男性であるということでしょ?と呆気なく解釈していたのでしょう。男性は性暴力の加害者になりやすいから、同じ男性として、傍観者にならずに止めよう!とホワイトリボンキャンペーンの非暴力宣言に即賛同したかもしれません。それはとてもシスジェンダー的な振る舞いに思えます。


ところが、ここで些細だけれど決して見逃せないバグが起きてきます。

現実のこの私は、社会的に構築された(ように見える)「男性」という「普遍」と、完全合致はできないのです。



●しかしながら同時に「個別のトランスジェンダー」として

ここからは、「男性」という普遍に包括されながらも、「個別のトランスジェンダー」として唯名であると思い知らされる経験を同時にします。


緩やかだが確固たる「男性」という概念は、「生物学的に」とか、「社会的経験」がどうであるかとか、様々な方面からの要請がありますが、それでもどうにか「男性」という「普遍」を一見成り立たせています。


そこで「私」の存在は「男性」では在れず、「私という個人」として浮上します。トランスジェンダーの経験が、私をただの「男性」にフリーライドさせてはくれません。「男性」という「普遍」の中には、例えば「生理のある」「ペニスのない」「親に“息子”ではなく“娘”として育てられる」「女湯に入ったことがある」といった事象は組み込まれていません。

一方、「男性」という「普遍」に適合していると思えたはずの私には、私にだけは、それらの個別具体的な条件が付きまとってきます。私は「男性」という「普遍」に収まったのではなかったのでしょうか?


今の私は、ほとんど性別適合したと実感できる状態です。(性別適合手術をしたとか、戸籍変更したとか、マジョリティ男性同然に女性と結婚してみたとか、そういう基準ではなく、単に私にとって、性別のズレが少なく快適な状態である、ということを指します)


そして「男性」という「普遍」に私個人の存在は埋没しながら、ただし、決して「男性」であるだけではいられず、「私」という個別具体的なトランスジェンダーとして、ときおり浮上します。

とりわけトランスジェンダーの身体は、自身でどういった治療を施すか「カスタムする」感覚が少なからずあります。シス男性集団のように、同じ時期に、同じ部活で、同じ運動量で鍛えたから同じように発達する、という経験も基本的にはありません。すべてが自分一人の実践として立ち現れるように思います。


性別違和のある時期には「唯名論」を信じ、

埋没環境の整った時期には「実在論」に呑み込まれ、

そうはいってもどちらも並存するのが現状であるようです。

トランスジェンダーの経験には、「普遍」はないのでしょうか?

翻って、なぜシスジェンダーの経験には「普遍」があるかのように語られるのでしょう。

閲覧数:331回1件のコメント

1 comentario


favilla_cazadora_pescadora
01 feb 2022

おひさしぶりです、返信ありがとうございます。

迷惑をかけてないかと不安に思っていました。

とりあえず感想として今回も思った事を走り書きします。


私たちは一人で存在しているのではありません。

これは実体験として物理的に一つな世界を共有しているからです。

そういう意味で私たちの存在の仕方は、個と世界(その他として)とが存在の段階で対面しているとも、また影響しあっているとも考えられます。

例えば私は誰かが社会の一つから排除されたとき、それを「排除」という行動としての影響を与えた存在として認識し、私もまたその認識によって影響されます。

そこに共通項(普遍性の欠片)を見つけるかどうかや認識の仕方によっても影響のされ方は変わるでしょう。

こういった存在として私が存在しているという意味で、どちらも真実ようにも、どちらも嘘のようにも今は感じられています(←「られて」、まるで自分の中に他者がいるような書き方をしてる、原文のまま投稿します)。

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