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「トランスジェンダー問題」のパラドックス

本当に苦しいときは、誰も助けてくれない。

トランスジェンダーの辛いところは、それだろう。


ときどき(Twitter上ではよく)見かける。

おそらく性別移行は完了していて、生活が安定していて、頭が良い系のトランス当事者が、ネット上の差別言説に対して丁寧に説明をしたりデマ訂正している姿。ある側面では必要な任務なのだろう、まったく真実ではない(たとえばトランスは性犯罪者だとか、早期治療でトランスが急増加中、とか?)情報がそのまま野放しにされる状況を防ぐために。言葉が流暢なトランスアライが、デマ訂正に時間を割いてくれることもある。


そして第三者はその様子をみて、言う。

「トランス差別が大変らしい」

「私も、トランス差別に反対します」


(決して組織体制としてトランスインクルーシブだとはいえないが)一部の個人の優しさでどうにか成り立っている日本のメディアにおいては、トランス差別に対抗するために必要そうな記事を出してくれるかもしれない。「2018年にお茶の水女子大がトランスジェンダー女性の受け入れを発表して以来、トランスジェンダーへの差別言説が酷いですが〜」。



※イラスト内には抜けていますが、「デマを撒き散らすぞ」とわかっていて悪さしているヘイターよりも、数的に多いのは、ぼんやりとデマを信じてしまって加担する第三者(新規のヘイター)でしょうね。


では、トランスのリアルってどんなだっただろう?

本当に苦しいときは、誰も助けてくれなかった。


学校に通えない心情のとき、第二次性徴期の悩みを一人で抱えこむとき、金欠のため人からの誘いを全部断るとき、家を失うかもしれないとき、メンタルヘルスが不安定なとき、就職なんて到底考えられないほど生きる希望のないとき、性別移行期で一歩外に出れば「気持ち悪い」という冷えた眼差しや無視をくらうかもしれないとき。ほかに障害を抱えていたり、国籍が違ったりすると、もっと悩みは増えるだろう。ずっとモヤモヤしていたとしても、性別違和に気づくことすら許されなかっただろう。ただ一人でやっていくしかなかった。路上には、頼れる人などいなかったのだ。

呻き声。声にならない声。でも確かに叫んでいた。誰も、その手を取る者はいなかったが。


そういう「地獄」をくぐり抜けた“トランス当事者”だけが、言葉を回復し、言葉を発する機会を与えられる。だからこそ、ネット上のデマ訂正をやる少しの余裕も得られるのだ。

しかし、そのときその“トランス当事者”にとって、苦しくて侘しくて寂しくて仕方がなかった、「トランスだからこそ」辛かった記憶は、遠い過去の記憶になっている可能性が高いのではないか。能力を回復してきて、トランス特有の悩みを今や意識しなくて済むようになった“トランス当事者”には、ときたま発言権が与えられるのだが、そんなふうに「もはやトランスだから苦しいとか思わなくて済むし、生活が楽になったものだ」と思える“トランス当事者”にトランスの代表をしてもらおうだなんて、なんて虫のよい話だろう?ここには、運、家庭環境、能力、階級、障害などの格差が横たわっている。トランス間の格差だ。



一方で不思議なことに、トランスの登場するわずかな映画やドラマ作品では、「トランスジェンダーだから辛い」悲惨エピソードが、過剰な演出をもって出迎えられる。家族との怒鳴り合いの喧嘩や、手術までの過剰なまでのプレッシャーと、その成功あるいは手術の失敗などが見受けられる。

(個人的な話をすると、「他者にわかってもらおう」だなんて思っていなかった私は、改名や手術報告を家族にしなければならない義務感などもっていなかった。手術は終わって、せいせいした。そう、「せいせいした」、やっとやりたいことのためにお金が使えるという開放感があった。だから映像作品のトランス描写には、リアリティを感じない。)


へんな構造である。


MtF界隈(“トランス女性”というよりは、身内間のある“MtF”)では、こんな話も聞く。

「可愛げある女になったら、辛かった頃のトランス話に耳を傾けてもらえる。“女装”“おじさん”“性犯罪者”のようにフレーム化されて一番辛い移行初期には、誰もやさしく接してくれない」


言い得て妙。本当に苦しいときは、誰も助けてくれない。トランスジェンダーの辛いところは、それだろう。トランスを苦しめる構造を、見なければ。

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