トランス女性が差別されるのはなぜか。
単にトランスフォビアというだけではない、ミソジニー(女性蔑視)に基づいている。
「男性」は普通、自然、優れている等とみなされる。
「女性」は人工的、演技している、劣っている等とみなされる。
女性的な要素が蔑視の対象となるからだ。
みたいな話?
すみません、私は“Whipping girl”も“The Transgender issue”も読んでいません(全然違った話をしていたら申し訳ない)。
思い返せば、私はトランジションの過程で「トランス女性ではなくてよかった」と思うことがありました。知っての通り、酷い差別に遭うからだというのもありますし、そもそも「女性」であろう、「女性的」になろう、とする努力は並大抵のものではできないからです。私自身は「女性であろうと努めたが失敗した」人間ということになりますし。
私自身は女性的なものへの同化願望がちっともないのでしょう。よくトランスパーソンが、「男性であれ女性であれ、シスパーソンでありたかった」と言います。私は、「シスであれトランスであれ、男性でありたかった」と思います。そもそも女性的なものへの、自身がそうなりたいという願望はあまりないようです。そうした女性化レース(シス女性も含めています)の当事者にならなくてよかった、と私は傍観者としてぼけっとしていられるのです今は。
冒頭で述べた「トランス女性が差別されるのは女性蔑視に基づいているから」という話は、社会全体、つまりは家父長制があり男性優位であり「男社会」である現在、そうなってしまっているという話かと。
もう少しミクロな話に移しましょう。「」とか“”といった強調を使おうと思ったら多用しなければならないくらい、あえて不快な話も出るかと思います。
「女社会」、というのは主語がデカすぎますが、ある一人の女性から見たらトランスジェンダーはどう映るのでしょう?
ある女性は性別移行前の私に告げました。
「MtF(トランス女性)はいいけれど、FtM(トランス男性)は気持ち悪いと思ってしまう」そういう台詞でした。数年前の台詞の真意など私は知りません。ただ、これがどういう背景でそうなったのか、つまり「トランス女性よりもトランス男性の方に抵抗を感じる」のか、冒頭の話を見聞きしてから、不意に分かった気もしたのです。
男社会のなかでは、「トランス女性が差別されるのは女性蔑視があるから」です。
それは、女性の方が他者化されていて劣っていて蔑んでもよい存在として表象されているから、としましょう。
では、女社会では?
女性が主役で女性が中心で女性が普通という前提でトランスジェンダーを見たらどう映るのでしょう?
トランス男性に対して、「なぜ【男なんか】になってしまうのか」という素朴な疑問がぶつけられることがあります。女社会においては、男性というものは野蛮で、暴力的で、攻撃的で、汚らしく、不自然な存在だからです。“わざわざ”男性性の獲得に向かっていくことは、ある女性視点から見たら、これまでの普通で自然で穏やかな日々を捨てて、波乱万丈のろくでもない男へ向かっていく、そのように見えることがあります(おそらく。私はそう感じる当事者ではありませんが)。
「トランス女性なら許せる」とある女性(きっとシス女性でしょう)が言うとき、それは「私たちと同じ女性の世界の仲間が増える、シスターフッドで結ばれる、共に装飾される辛さを味わってくれる」という期待に裏付けされているのでは?と思いました。
一方で、トランス男性は「これまでの女同士という期待を裏切った」、ろくでもない男の仲間入りを画策する無理解な、女社会に対する侵入者だった、ということになります。
トランス男性は社会(すなわち、男社会)の中に溶け込んでいくことができます。男性だからです。単なる人間として、息をすることができます。そのときもはや、「女社会」という閉じた空間に戻ることは、許されません。
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