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国際女性デーに思うこと

●「男はフェミニストになれるのか?」

という質問を、シス女性のフェミニストである友人に聞いたら、渋い顔をして悩んでいた。別の人に聞いても同じく。フェミニズムに親和的であってほしいが、自称するタイプの男性にはどうしても警戒してしまうらしい。わかる。わかるから、今の自分は困る。


なんというか、数多くある解消すべき「差別」の一カテゴリーとして、「女性差別」やそれを前提としてできている性差別全般の問題が片付いてしまうのだと思う。男性という立場である人の場合は。

「女性」らしき存在であるときは、文字通り生死の問題(女性を狙った犯罪や、女性向けとされる医療が蔑ろにされていること、生活必需品なのに生理用品が高い、避妊アイテムが高価なこと.........)であり、だから好まざるにしてもアイデンティティや経験のレベルでフェミニズムを間近に感じるほかなかったのだ。


しかし、「男性」はどうだ。直接的な危害が少ない分、性差別に鈍感なままなんとなくでやっていけてしまう。いや、実際は「男性」もきつい。だが、重い腰を上げるほどの危機迫る焦りはない。そういうことなのだろう。


●ミモザのゆるふわ感

3月8日は「国際女性デー」であり、イタリアではミモザの花を贈り合うのだという。


それゆえ日本企業やメディアもミモザでゆるふわっと「国際女性デーなのでしょう?弊社もなんかやっとるよ」感が出ていたように見受けられる。これでも多大なる進歩だ。何にもなかった頃に比べたら。綿毛のような黄色い花々を散らしておけば、なんかやっとる感が出せる(!)なんだかやさしくて、たぶん希望に溢れている“何か”。



●国際男性デーは11月19日です

私は思う。そういうミモザのゆるふわ感というのは、国際女性デーにおける女性向けの有り余る課題に対しては、お腹いっぱいだ。もっと具体的な数値や目標や実績を提示してくれ。


そして代わりに、11月19日の「国際男性デー」にそうした“ゆるふわ感”を採用してみたらどうだろう?

なぜなら「国際男性デー」で語られるのは(そもそも圧倒的に情報が少ないが)、「男らしさって辛い」「女性を無意識にでも抑圧していないか僕ら男性は考えよう?」という2パターンだ。それはもう分かっている。そうさ大事だよ、でももう分かりきっていることだ。そこに新しい視点はないものか?国際女性デーにおけるミモザのゆるふわ感というのは、男性にこそ必要なものじゃないのか。


つまり「競争」「比較」から離れた、男性単体の存在を包み込むようなゆるふわ感、ホモソーシャルから解放されたシンボルがあったなら。


“ゆるふわ感”をもう少しだけ落とし込んでみる。

例えば、「男性は自分の下着を洗わない」という指摘がある。少年時代は母親が洗い、結婚後は妻が洗うからだ。女性任せで、男性が自分の性器やデリケートゾーンや肌着に対して気を使う機会が全然ないという話だ。そこでせめて「国際男性デー」くらいは下着販売店が、男性に安心を与えるような下着を提供する。それを男性が丁寧に扱う。自分で洗濯する。自分で干す。そうした工程すべてを映し出す。ときに男性的な身体は「汚い」ものとして扱われる。かなりの頻度でそうである。だが、せめて「国際男性デー」くらいは、自身の身体を「汚い」と認識することから離れるようにしむける。あるいは逆パターンで、やたらと屈強でマッチョな男性身体像を提示して称賛するのをやめてみる。代わりに、もっと身近な男性モデルに登場してもらい、ありとあらゆる男性の身体が現に存在することを示す。「男性更年期にちょっと立ち止まってみよう」「健診はいかが」というアプローチもありだと思う。


上記の例はパッと思いついた内容に過ぎない。だが、やれることはあるだろう。ゆるふわなイラストを「国際女性デー」に量産すればいいやという思考停止をやめ、もはや“新しい挑戦”ですらある、「国際男性デー」に持っていくくらいがちょうどいいのではないか。

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