トランス女性(MtF)への差別が拡大し、#トランス女性は女性です というカウンターが成されました。
そして、これを、トランス男性(FtM)は対岸の火事として眺めているだけだったのではないでしょうか。
差別されてないから #トランス男性は男性です と言わなくてよい、のではなくて、
対になるであろうトランス女性差別をなくすために、
トランス男性当事者が積極的に利用してもよかったのでしょう。
もはやちょっと遅いけど。
わかっています、#トランス男性は男性です とわざわざ主張する必要がないくらい、日々は平凡なんですってのもリアルなので。
けれども非当事者アライが用いる場合では、どうやら残念なトランス男性像が出てくるようです。
「トランス男性は(シス男性とは異なる様々な条件をもつ)男性です」の括弧内が無視され、では完パス髭兄さんのトランス男性しかいないのか?
というような、画一的な人物像(虚像)が作られてしまいます。
それはトランス男性当事者間の分断を生みますし、なんだか空疎に響きます。
トランス男性の経験が画一化されると、
では女子校、女子スポーツ、女性寮、レズビアンバーなどに関わってきたトランス男性は女性であり、翻ってトランス女性は男性側なのか、と言いくるめられることでしょう。
が、それはあまりにもシス特権に基づく男女分けに過ぎないのであって、単にトランスジェンダーの経験を無視しているのだと指摘できます。そうした多様な経験があっても、トランス男性が男性として生きる物語は語ることができます。また逆に、男性同然のジェンダーを負ってきたトランス女性であっても、そうした経験を経てきた女性として、生活実態を示すことができます。
私だって女子寮に世話になった期間の同じ空間にトランス女性が居合わせたり(両名は女性空間に並存し得る)、またレズビアンバーで働こうか検討したりもしましたけれど、今男性として生かされている経験が消滅するわけではありません。ひとつの連続体として存在しています。シスジェンダーの規範的な生き方と同一です、なんて言えなくても言わなくても、#トランス男性は男性です と物語を展開させることはできたでしょう。
このタイミングが今や遅い、と感じる理由は、
トランス男性自身への偏見や差別も見受けられるようになってきたからです。
#トランス男性は男性です というスローガンを、単に盾として用いるのではなく、できることなら矛として使えるうちに使っておいた方が良かったように思います。それこそ、トランス女性へのバッシングを背後から突くことができたのは、トランス男性だけだったのかもしれませんし。
「多様な男性」の一つにトランス男性が常に既にいることを、(相手のデマに振り回されながら防衛として言い返すのではなくて、)自分のペースで示せたら良かったのではないか、と.......。
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