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家族の物語『ヒゲとナプキン』から蘇る、シス女性との恋愛

乙武洋匡  杉山文野(原案)

2020年 小学館

『ヒゲとナプキン』はトランス男性(FtM)の杉山文野さんのアイデアを元に、乙武洋匡さんが他のトランス男性当事者の取材も交えながら書いた小説です。



※ネタバレあります※

以下、私の感想です。

アメリカ映画みたいに言うと、Good newsとBad newsがあるがどっちを先に聞きたい?と問いたいところです。


まず、Badな指摘から。

率直にいうと、最初は読みにくかったです。 乙武さんの小説の出来が、という話ではなくて、登場人物に共感できなかったためです。それが最初の4分の1ほど読んだ時の感想。


トランス男性がこんなに過度に「男らしく」あるわけないよなぁ。

と書き方に抵抗が生じたわけですが、その反面、そもそも小説というフィクションは男性が男性らしく、女性は女性らしく演出されるものだろうと思い返しました。セリフで登場人物の一大特徴である性差を読者に読み取ってもらわなくてはならないのだから、そりゃあそうなるのです。だから主人公のトランス男性イツキが男らしさにこだわっているように見えても、それは非トランスの男性だってそのように描かれているではないか、と一旦冷静になりました。


逆に、小説上の性差アピールを活用すれば、読み手のミスリードを誘う『消失グラデーション』のような作品も可能なわけですね。

(これは友人が私に勧めてきた小説でした。なぜカミングアウトもしていない、私自身も“気づいて”いない時期に、この小説をズバリ勧めてきたのだろうと不思議でしたが。)


性行為・自慰描写について。

私だったらどう書いたでしょう?「女性器/男性器」という表記は絶対に採用しなかったと思います。けっこうこの部分は引っかかりがありました。


イツキが生物学的に女性である以上、快楽を得ようと思えば女性器に触れるしかない。(略)イツキにとっての自慰行為は、同時に自傷行為でもあったわけだ。(p.87)


わかりやすいトランス男性像ですが、実際のところイツキのように苦しむトランス男性が多いらしいのも事実のようです。


FtMのセクシャルウェルネスに取り組んでいるモリタジュンタロウさんがFtMにアンケートをとったところ、「SEXで困っていることはなんですか?」の結果は、第一位「服が脱げない」、第六位「自分が満足しない」でした。(「竿なし男子によるSEXの真面目な教科書」第2章より)

その背景にあるのは、気持ちよくなりたい欲求があるとはいえ、自分の身体を女性のものとして認識するハメになりそれが苦痛だ、というジレンマです。なので『ヒゲとナプキン』のイツキのように自分の身体に触れることが“自傷行為”だと感じる当事者ももちろんいることでしょう。


......なんだかとんでもなく他人事のような書き方をしてしまいましたが、私自身は別の捉え方をしているので、今では同じような悩みはほとんど抱いていないのです。海外のトランス男性たちは自身の胸オペ跡や、膨らんだ乳房や、股間を(他のシス男性が行っているのと同程度に)堂々と見せて(魅せて)いる人もいるのですが、日本ではそういったポジティブな身体描写はまだまだ少ないかな、という印象です。


『ヒゲとナプキン』は、要素要素が「わかりやすい」、もっといえば「同情を得やすいエピソードが多い」ものに感じられました。どこまでが当事者の苦悩によるもので、どこからが社会的に求められているトランスジェンダー像を演じてしまっているのかはわかりません。また男性の記号として、よく見かける「ペニス」ではなく「ヒゲ」が召喚されているのは特徴的でした。


さて、Goodなところ。

どんどん読むペースが上がっていくのは面白かったです。イツキというトランスジェンダー男性1人の物語ではなく、周囲の人を巻き込んでいきます。視界が開けていきます。


イツキは職場で実質アウティングされてしまいます。

というのも、高校時代(=女性として過ごしていた時代)を知る人と間接的に出会ってしまったからです。イツキという中性名ゆえ、改名もしていなかったようです。名前で過去を調べられたら一発アウトです。

そして後日、同僚の男性陣はイツキに対して「察してやれなくて悪かったな(p.61)」と謝ってきます。本当はオンナなんだろ?でも男扱いしてほしいんだよな?気づいてやれなくてごめんな、という展開。この“配慮”の違和感はよく描かれていました。イツキは「女扱いされるわけでもなく、ひとまず無事に受け入れてくれた」とどうにかポジティブに解釈するのですが。


また、原案が杉山文野さんなだけあって、ご本人の著書『元女子高生、パパになる』でも描かれていたエピソードがありました。好き同士というだけでは愛する彼女と一緒にいられない、という展開です。同じ境遇を経るトランス男性当事者にとっては、世界中に自分のような不幸者はたった1人だ、という圧倒的孤独感を軽減させる役に立つかもしれません。


読んでいくうちに、私自身が消し去ろうとしていた過去が顔を覗かせてきます。もちろん、今更どうでもいい、どうでもいいのですが、シス女性が怖い、好きだという感情だけで一緒にいることは不可能だという絶望感、結局相手は他の男のもとへ行く、そうした、本当に今やどうでもいいのだけど、棘が刺さった跡は完全に消せなかったのだということ、傷跡はどこかへ見えなくなったけれども、決して無傷だった頃には戻れないのだという自覚はあります。


作中のイツキは、父親と8年間会話をしていません。「溺愛していた娘」が「息子」だったことを、父親は受け入れられませんでした。けれど精子提供の協力をしてくれることを願って、イツキは懐かしい街へ足を運びます。

この時間軸も好きでした。ジェンダーを移行する経験は、時間をかけて行われる出来事です。


実は先日、私は間違えて女性用トイレに入ってしまいました。帰省したときです。地元の最寄駅構内のトイレでは毎回「右側」を使っていたので、足が勝手に「右側」を選んでいたのです。そして個室に入ってから、「あれ、今小便器が並んでいなかったような......」と不安に駆られたのでした。幸い誰にも見られていなかったようですが、今や私が入るべきトイレは「左側」なのでした。その時、時間の流れを感じました。


『ヒゲとナプキン』に話を戻すと、 後半はトランスジェンダーの物語というよりは、家族の物語に様相を変えていきます。そのリアリティはまだまだ世の中に情報が少ないものですし、夫婦別姓や同性婚すら認められていない日本社会のなかで大きな意味を持つのではないでしょうか。現実の人間を、法律が貶めることがあってはならないでしょう。

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