町田奈緒士さんの『トランスジェンダーを生きる 語り合いから描く体験の「質感」』とても充実していて、読み応えがありました。
第一部「理論編」では、トランスジェンダーの説明、歴史、データ等。
第二部「事例編」では、8人のトランスジェンダー(FtM, MtF, X)と著者の掛け合いが綴られていて、トランス当事者の「質感」をとにかく求めている内容になっています。
こう言ってよければ、私が以前書いた『トランス男性による トランスジェンダー男性学』とうまい具合に補完し合う内容になっている気がして、非常に面白かったのです。今回はそこを取り上げてみたいと思います。
●トランスジェンダーの説明
私も例に漏れず、読みやすかったので第二部「事例編」から読み出しました。でも、第一部「理論編」も面白いです。こう、私ならサボってしまうところを、きっちりまとめ直してくれるから研究者って凄いな、と思いました。
トランスジェンダーの歴史については三橋順子さんを参考にされているのですが、それだとずいぶんMtF系の説明ばかりに偏ってしまって、FtM系は全然登場しないけどそれでいいのか?という点は気になりましたが。
●男性「同性愛」
「性別越境」(p.11-)の話で、中世に遡ります。女装をした「稚児」と、師僧の性関係は、男性同士の「同性」愛というのではなくて、「擬似ヘテロセクシュアル」に近いのでは、というご指摘。ゲイ的関係性というよりむしろ、女装をした「稚児」にトランスジェンダー(トランス女性)の原型を見る、といったところでしょうか。
私は稚児の話を書いてはいないのですが、「身分の高い年上の男性」と、「身分が低い年下の男性」の性関係をそのまま「男性同性愛」の文脈で読み取ったものですから、ここも違いますねえ。私はトランス男性(≒男社会における年少者)がシス男性(≒年配者)とゲイセックスに向かう背景を、「男らしさの習得」として考えました。とくに女装文化は考慮していませんでした。いってしまえばトランス男性は幼少期に強制的に女装させられているようなものですが、それをもって「女性」として読まれてしまったら当事者にとって侮蔑的でしょうからね。だから「身分が低い年下の男性」の立場にトランス男性が置かれるときは、また全然違った見方が必要になるのではないでしょうか。
●フロイト、ラカン、レヴィ=ストロース
好き嫌いはあるとはいえ、性を精神分析や制度・権力から語るのが面白かったです。
フロイトは「セクシュアリティの構成要素として、割り当てられた性、ジェンダー・アイデンティティ、性的指向などを区別する現在の考え方に近」いそうで(p.35)、言われてみればそうなのかううーん、となりました。
●トランス男性は女性に甘えているのか問題
あまり突っ込むのはどうかと思いつつ、気になった点。
ラカンの説明において、町田さんは自身も男性側に立ち、彼女(恋人)との関係性を振り返っています。しかしながら、彼女(恋人)の前では自身の男性性に直面しているにもかかわらず(p.36-37)、
「実践編」に飛ぶと、「男性性」の強い男性の前では、自分のことを「女子っぽくなる」感じを覚える(p.228)とも述べており、アンビバレントな心理状況が浮かび上がります。
私自身、友人(トランス女性)に指摘されたことがあります。
「トランス女性の方は男性との関係性において拒否されるかもしれない可能性を直近に感じているのに対し、トランス男性の方は相手の女性が受け止めてくれるだろうと呑気なのではないか」といったことを。
確かに、悪しきメディアの中でトランス女性がトランスバレすると、恋人に近い関係だった男性から暴力を振るわれたり、男性の方が「裏切られた」と憤ったりする場面はありました。
一方で、トランス男性がトランスバレしたことで相手の女性から同様の強い拒絶を受ける場面は想定されてきていません。なんとなく相手の女性は男性である自分を許してくれるのではないかと“甘えて”いる、というのがトランス男性側への指摘として言えなくもないでしょう。これって結局のところ性差別社会において、トランス男性側が女性よりも「男性」としてのポジションに立てているからそうした“甘え”が通用している、ということになるのですかね。いや、トランス女性の状況が酷すぎるだけだよ、というのは言えますが。
それはそれとして、トランス男性が他の男性(とりわけ「男性性」の強そうなシス男性)を前にすると、「同じ「土俵」に上がっている」と思ってもらえていない感じがする(p.228)というのは言い得て妙です。「「土俵」とは、男しか上がれない場という意味」ですから。
●トランス男性の「男性性」
笑ってしまったのがここです、p.296の脚注!
町田さんの印象では、「トランス男性はホモソーシャルな規範を積極的に実践する傾向にあるのでは?」とのこと。しかしながらご自身は「男性性」(攻撃的・自己主張ができるといった特性)が強くないタイプのトランス男性だから、オラオラ系FtM(こんな書き方はしてない)を無意識に避けちゃったかも、と。
仰っていることはとてもよくわかる。自分史で求められる内容や、エッセイで見かけたり、YouTubeで積極的に語っているようなFtMは、どうしても「男性性」強めに見えてしまう。というか、見える範囲ではそればかりに見える。
本当はそればかりではないはず。トランス男性の中には、引きこもりも、理系も、バリバリ埋没サラリーマンも、ゲイもアセクシュアルもいるはず。でもそういった実態は見えてこない。吉野靫さんの言葉でいうと「GID規範」に則っていないトランス男性は話題に上ってきづらいようだ。しかも、「男らしく」あろうとすると、フェミニズムを蔑ろにしていたり、身近な女性を下に見たり、FtM同士で競争しているような、そんなイメージはあるかもしれない。
直近で出た荒牧明楽さんの『トランスジェンダーの私が悟るまで』にも、そんなエピソードはある。「男は黙ってセブンスター」(荒牧、p.97)と苦手なタバコを試して、とりあえず「男らしさ」をインストールしてみたりね、それがありとあらゆる場面で人間関係にも出てしまう。
で、私は「悪しき男性性を忌避しながら、“あんな男になんかなりたくない”と願いながら、それでもすっかり男性として男社会に埋没しているトランス男性」の話を書いたつもり。“オラオラしてないFtM”が、では男社会で何を感じ、どう生きるのか、という話をもっとしたかった。『〜トランスジェンダー男性学』の第6章タイトルは「第三の切り口:トランス男性の男性性を探して」です。しかしながら日本語でそういったタイプの話が出てこないので、確かに困ったものです。
他にもふつふつ小言書いて感想述べたい箇所はあったと思うのですが、とりあえずここで。トランスジェンダーの物語が増えていくと、比較検証してにやにやしてしまうのがとても良い。
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