レイウィン・コンネル『マスキュリニティーズ』
訳:伊藤公雄ほか
2022年 新曜社
第1章「男性性の科学」p.3-p.55
『マスキュリニティーズ』を各章ごとにまとめていきます。「第二版への序文」と「補論」をのぞいて、全10章あります。
第一部 知識とその問題・・・第1章〜第3章
第二部 男性性のダイナミクスに関する四つの研究・・・第4章〜第7章
第三部 歴史とポリティクス・・・第8章〜第10章
コンネルの基本姿勢
→男性性は「多面的」で、「包括的な知の領域」を成していて、「社会の変化」と結びつけられるものとして、社会構造をみるように語っています。
では、第1章「男性性の科学」。
コンネルがお気に入りなのであろう、フロイトの脚注から1文目は始まります。「男性的」および「女性的」という概念は混乱している、と。なぜか?
その理由は、「歴史的に変化し政治性に満ちたジェンダーそれ自体の性質のゆえ」だとコンネルはいいます。ジェンダーは、観念レベルで説明できるものではありません。日常生活において「遂行され」、「達成される」ものです。
「科学では〜」「生物学的には〜」女/男はこうなんだ、と主張するトランスジェンダー差別者にも聞いてほしいですね。「科学は私たちの教育制度とメディアにおいて確実なヘゲモニーをもって」(p.7)いますが、まずもって自然科学それ自体が、ジェンダー化された性格をもっています。科学者や技術者は男性で占められていますし、文化的に男性化されているのですから。このような男性性の科学に、何を期待します?
さて、本文では20世紀をとおして存在してきた「男性性の科学」のための主要なプロジェクトとして、以下3つ挙げられています。
①セラピストによってもたらされた臨床的な知。フロイト理論におおむね由来します。
②社会心理学に基づいた「性役割」という観念。
③人類学、歴史学、社会学における最近の展開。
●コンネルさん、フロイト好きだね。
さっそく第二節は、「臨床的な知」について。(p.9-)
フロイトを褒めてます。フロイトこそが、一見したところ自然な「男性性」という対象を崩壊させ、それがいかに形成されているかという問いを可能にすると同時に、ある意味でその問いを不可欠なものにしたからです。簡単にいうと、「男性は、つくられた存在さ。」と示したのがフロイトだった、ということでしょうか。
ここの内容とはまた別ですが、町田奈緒人さんの『トランスジェンダーを生きる』(p.31-36)にも、フロイトにまつわる解説が出てきます。「フロイトの指摘は、セクシュアリティの構成要素として、割り当てられた性、ジェンダー・アイデンティティ、性的指向などを区別する現在の考え方にも近」い(町田、p.35)、と。
私自身はエディプス・コンプレックスの説明に全然しっくりきたことがなく、つまづいてしまうのですが、フロイトといえば男性性含むジェンダー概念の解像度を一気に上げてくれた存在だったわけですね。
逆に、コンネルはユング(と、その継承者たるユング派)には批判的なようです。コンネルは“ジェンダーには変化がある”といいたいのに、よりによってユングは「永遠の真理に根ざしたものとして」「いかなる歴史的な変化も考慮されることがない」(p.16)ものとして男性性/女性性を位置づけようとしているのですから。
●ストーラーの「トランスセクシュアル」というテーマ
フロイトとユング以降の精神分析について、興味深い紹介もあります。
エリク・エリクソンに由来する「ジェンダー・アイデンティティ」概念と、ロバート・ストーラーによる「トランスセクシュアル」というテーマの創出についてです(p.17-19)。
ここでのストーラーの研究は、バイナリーなトランスの男女にとってはとても有効な説明をしているのでは?と私は思いました。フロイトが、ジェンダーを純粋な状態としては存在せず変化すると位置づけた一方で、ストーラーはちがった発見をします。人生の最初期の数年のうちに植え付けられる統一された「中核的ジェンダー・アイデンティティ」を発見した、というのです。
以下、コンネルの記述。
「(ストーラーの発見によると)男性にとってのトランスセクシュアリズムは、女性になりたいという願望として定義されるのではなく、すでに女性であるという確信として定義されるのである。」(p.18)
ここでいう「男性にとってのトランスセクシュアリズム」とは、「自分のことを女性だとアイデンティファイしている“男性”」を指し、現代的な言い方をすれば「トランス女性(MtF)」のことです。なので、「トランス女性は、生まれながらに女性である」といった主張と重なるのではないでしょうか。変化を軸としているコンネルは、「生まれながらに決まっている」といった説明は、それがシスであれトランスであれ歓迎していないように見受けられますが。
第二節「臨床的な知」では、ラディカルな精神分析について述べられています。
・アドラーがヘゲモニックな男性性に批判的であること。
・ライヒは、「権威主義的家族」を階級社会と家父長制の再生産が成し遂げられる場所として強調したとはいえ、フェミニズムへの評価を欠いていたため、男性性そのものを扱わなかったこと。
・ボーヴォワールは「男性主体にとって女性は「他者」として構成されている」と示した(p.23)。だが、コンネルの知るかぎりボーヴォワールのアプローチは、男性性の理論として一度も適応されていないこと。
ボーヴォワール以外で精神分析とフェミニズムのつながりはほとんどありませんでした。徐々にフェミニズム内で精神分析の可能性が出てきたといえるのは、ラカン、そしてチョドロウとディナースティンの研究の影響です。
●抽象的な「男性役割」というフレームワーク
第三節は、ずばり「男性役割」。
「男性」の話をしていきます。でもここ、『ジェンダー学の最前線』(多賀太監訳, p.74)でも言っているとおり、「性類似(セックス・シミラリティ)」なのですよ。本当は「男女でちがう」ところばかりではなく、むしろ「性差は全く存在しないか、かなり小さいか」(p.26)でしかない。
しかしながら、本来はほどんど同じであるような性差をことさらに区分けして、実際のところ「性差」が確固たるものとしてあるかのように、人々は生活させられています。ならば仕方ない、20世紀の半ば頃生み出された「社会的役割」、すなわちジェンダーに関していえば「性役割」の話にようやく入っていきます。
フェミニズムの影響を受けて1970年代半ばには、米国で「男性解放運動」の流れができ、「男性学」の構想が始まりました。当時主張した男性作家としては、ウォレン・ファレルとジャック・ニコルスの名が。このへん未邦訳の著作が並ぶので、すごく気になります。
コンネルは『マスキュリニティーズ』において、たびたび繰り返します。「性」の話だけしていては、「性」における課題が解消されしないこと。
「性役割は(略)人種や階級やセクシュアリティの諸構造を曖昧にする一方で、男と女の間の差異を誇張することによって社会的現実を誤認させる。」
「「男性役割」の議論が、ゲイの男性をほとんど無視し、人種とエスニシティについてほとんど何も言及してこなかったことは明らかである。」(p.33)
ここで気づくのですが、トランス男性はゲイのように「従属的男性性」ではなく、ほとんど何も言及されてこなかったという点で、人種やエスニシティにおけるマイノリティに近い立場に置かれているようです。
というより、トランスジェンダーが差別されるときは、「ジェンダー・アイデンティティ」の毀損ではなく、「出自」(=もとは女性だっただろ!)による差別である面が往々にしてあります。なので、「トランスジェンダー」をセクシュアリティやジェンダーやアイデンティティの問題として扱うだけでは到底全体を捉えきれていないのだと、改めて気づきました。
なお、「性役割」でジェンダーを語る問題点としては、ジェンダー関係の内部において変化が起きていることを見過ごしてしまうことが指摘されています。時代が変わったから性役割も変わるよね、などと外部に変化の要因を求めるだけでは、内部の変化を見れていないのです。
●「男性役割=大黒柱」は最近の発明にすぎない
コンネルは、規範が埋め込まれている諸制度を問うよう、繰り返し読者を促しています。
「男性性は単に、頭の中の観念や、あるいは個人のアイデンティティであるだけではない。それはまた、世界規模で広がっており、組織化された社会関係に染み込んでもいるのである。」(p.36)
制度をみてみれば、たとえば男性に対する「大黒柱」としての賃金給付が最近の発明であり、決して普遍的に受け入れていたわけではないと気づきます。あるいは、スポーツ(例:ラグビー・フットボール)は「男らしさ」と紐づけられているようなイメージがありますが、大衆が熱狂するよう政治的に仕向けられた、歴史的な産物なのです。情報技術(p.71の例)が「男の仕事」になったのも、産業構造が変わったため、もとは家庭で女性が担っていた仕事のイメージを一新しようとして広告を打った影響によります。
多賀太さんの著書『ジェンダーで読み解く男性の働き方・暮らし方』(2022)ではありがたいことに、「「男」とは誰のことか」(p.54-65)が書かれています。「男性」が何を指すかは文脈次第ともいえるのです。今そこで「男性の身体の健康」の話をしたいのか、「性自認」の話をしたいのか、「男らしく振る舞うことのプレッシャー」について議論したいのか。それぞれ指し示す範囲は重なる部分が多いにせよ、異なっていることがわかるでしょう。
●男性性の内部を見よ。
ところで、複数の男性性における多様性を意識するだけでは十分ではありません。
男性内部の関係性(協調、支配、服従...)、男性内部のジェンダー・ポリティクスを認識しなければならないのですから。
おまけに、「ヘゲモニック(覇権的)な男性性」といったところで、その内情は変わりゆくものです。固定されたカテゴリーとみなさないことが大切です。
「男性性というものが、大規模な社会構造と社会課程の一つの側面として理解しなければならない」(p.48)
繰り返すねえ、コンネルさん。
第1章では、一貫性をもった男性性の科学を生み出すことに失敗しています。でも学者の力不足というわけではなく、そもそもそんな仕事は不可能なのです。
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