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『マスキュリニティーズ』第10章「実践とユートピア」メモ

レイウィン・コンネル『マスキュリニティーズ』

訳:伊藤公雄ほか

2022年 新曜社

第10章「実践とユートピア」p.309-p.334


家父長制の受益者であり続けてきた「男性」。

たとえば1990年代の米国の男性の平均収入は、女性のそれの197%。企業や国家権力の中心的立場を独占してきた。すべての階級において(どんなに「弱者」な男性でさえ)異性愛男性は女性からの性的サービスを当然のこととして受ける立場にあった。資源についての大いなる不平等。ああ、挙げたらキリがない。


男性性は危機にあり、「変化」が起きていることには、多くの人が気づいています。しかし産業国家で砕けたものは「家父長制の正統性」なのであって、家父長制の構造そのものがバラバラになったわけではありませんでした(p.311)。

もちろん、「変化」が起きたからといって男性がひとかたまりになってフェミニストになったわけではありませんね。むしろ、家父長制擁護の社会生物学、「銃をめぐるロビー活動」「右よりの男性向けセラピー」(ともに第9章)などの反発は消えていません。そもそも、そうした保守的な意識が生まれること自体、「男性性は社会的に転換しつつある」という証拠といえますが。


それでも、女性解放運動、ゲイリベレーション、メンズリブ運動によって意識の変化は訪れてきたはずです。ただしコンネルが第6節で述べるように、メンズリブ運動の活動家は頑張ってはいても「男性性を転換しようとするプロジェクトは全く政治的な力を発揮しなかった」(p.331)と結論づけられています。

正直、トランス男性の私からしたら、ゲイも男性なのに、なぜわざわざ“ゲイは男ではない”かのような偏見がとくに男性間にはびこっていて、別枠でくくられるのか理解できずにいました。しかし、コンネルにこれだけ言及されれば理解するというか、異性愛男性中心のメンズリブ運動と比較すれば、ゲイリベレーションは社会全体への変化を促したものだったようです。単にゲイが「ヘゲモニックな男性性によって従属的な立場におかれている」というだけでなく、HIVの拡大に直面した際の組織的基盤や社会的実践、政策論争において発言権を得たことなどから、ゲイの活動はメンズリブとはちがって大きな影響があったといえます。


●社会的正義とは何か


フェミニズムは平等を追求してきました。

このときよく反平等派が口にしますが、社会的正義の追求は画一性を求めることを意味していません。政治的実践はシングルイシューでは済みませんし、多様に構造化された生活が互いに還元できるわけでもないからです。「複合的な平等」を前提にすれば、「女をみんな男にしてしまう」ことがフェミニズムの行く末というわけでは、もちろんありません。


「ジェンダー関係における社会的正義とは、均一化を求めることではなく、広く適用しうる利害関心に基づくものなのである。複合的な平等は、まさに現実の実践として、人間の可能性を開放的に追求するためにも、また多様性のためにも必要な条件である。(p.315)」


さて、社会的正義を考える際には、男性が今のままいるわけにはいきません。それでは現状維持になってしまいます。ではいったい、社会的主義のポリティクスは、どこに向けられるべきでしょうか?

男性の優越性と権力に対してか、男性性の形態に対してか。


コンネルは、大半の男性性の議論が沈黙している点を告げます。

「男性と同様に女性も男性性の担い手である」(p.316)

「男性性を根こそぎにしようとするなら、男性の生活と同様に女性の生活も変化させるような投企が求められる」(p.317)と。


これに関して、小島慶子さんの『おっさん社会が生きづらい』は必要な視点を持ち込んでくれます。女性であっても、「おっさん性」を持ちうる、ということです。小島さんは夫が退職して自分だけが大黒柱になったとき、「私が食わせてやっているのに」という気持ちになったといいます。その人の性別が男性であるか女性であるかに関わらず、その場で権力をもっているのが誰であるのかが問題です。家父長制の形態を維持するのが女性に代わっただけでは、社会的正義はちっとも達成されていません。

※この本はセックスワークにやさしくない記述があるので注意。


また、女性が家父長制を支える例としては、中絶の権利や同性愛に反対する女性の活動があることが挙げられています(p.332)。


●脱ジェンダー化する戦略


ヘゲモニックな男性性を取り除いていく企てとしての戦略を、コンネルは「脱ジェンダー化する戦略」と言っています。それは文化や組織のみならず、身体についても応用されます。「というのも、身体は家父長制の擁護者によって望まれた場所であるから」(p.319)です。


トランス女性がなぜ家父長制のもとで生きにくいのか。『トランスジェンダー問題』第7章では、哲学者ロビン・デンブロフによる「家父長制の鍵となる3つの発想」を紹介しています。

  1. 男性と女性は自然で、変更不可能な二元論である。

  2. すべての男性は男性的であるべきで、すべての女性は女性的であるべき。

  3. 男性性は女性性とは両立せず、そして女性性よりも優れている。


この3つが家父長制の発想です。トランス女性やトランスフェミニンな人々は、これらすべてに「歯向かう」存在であることがわかります。だからこそ、家父長制にとって決して認められないのです。


コンネルの見立てによれば、「性転換の外科的な処置が、ジェンダー秩序のもっともラディカルな挑戦とまさに同じ歴史的瞬間に生み出されたというのは、偶然ではない」(p.319)のだとか。トランス女性(当時でいう、Male to Femaleのトランスセクシュアル)は、家父長制に歯向かう存在であり、フェミニズムやらゲイリベレーションやらで「ヘゲモニックな男性性」が危機に立たされているまさにこの時期だからこそ、「手術」という明確なジェンダーを変化させる挑戦が可能だったのだ、と。


・・・補足すると、「(性器の)手術」の有無に関わらずジェンダーの移行は可能であって、「手術」だけに焦点化する必要はありませんがね。それだけ「男根への攻撃(ラカン派の言葉)」や「去勢の恐怖(フロイト的な言葉)」が過大評価されていたのでしょう。


社会的正義のポリティクスのためには、「行為主体を失うことによってではなく、それを拡張することによって」(p.319)なされるべきです。脱身体化するのではなく、男性の再身体化が求められています。

ここだけ読むと私は、自身が男性として社会的正義に関わるには、「もはや男性ではない」トランス女性的な生き方ではなく、「もはや男性でしかあれない」トランス男性的な存在が求められているのでは、と思ってしまったのですけども。


とはいえ、コンネルが「男性の再身体化」として例に挙げるのは、もっとほんわりしたイメージです。たとえば、乳幼児のケアのような体感的な作業をしてみると男性の身体の許容量を豊かにさせるよ、とか。


●ストレート男性がアクションを起こすには


「第4節 アクションの形態」では、社会的正義へのプロジェクトといったものが、まさに自身が共有している利害に対して向けられるであろう当の男性たちの立場はどうなのか、が語られます。


ジェンダーの正義へのプロジェクトが支持されるには、男性性以外の理由に基づいて男性間の連帯が求められるのだといいます。そこでは、同じ状況におかれた女性たちとの明確な連帯も起こるでしょう。労働党や社会主義政党、労働組合、環境運動、コミュニティのポリティクスなどなどにおいて。


「ここで必要とされているのは、男性運動ではなくてむしろ連合のポリティクスなのである。」(p.326)


うう、わかる。わかるが。私もそう言いたいもの。

それはまさにコンネルが邦訳300ページ分をかけてフェミニストであることが提示できているからこそようやく言えるのではないか、という引っかかりを覚えてしまいます。国会議員の98%が男性を占め、男性の収入が女性の197%だというような、この不均衡の中で、冷静に「同じ状況におかれた女性たち」と連帯できるのでしょうか。たとえば新左翼の学生運動で、女子学生はおにぎり担当だったとか公衆便器扱いされていたとか、そんな女性蔑視が決して起こらずに、共通の目的に立ち向かえるほど、男性を信頼できるのだろうか。

いや、できるできないではなく、やれよ!ってことでしょうか。構造上の多大なる差別を無化するのではなく、それはそれとして受け止めた上で、連合を生むこと.....。


コンネルは、教育の重要性も訴えます。2022年現在では50年もの長きにわたって大学に勤めているため“The Good University ”という著作もあり、さらに「学校制度における少年教育(さらに少年だけでなく少女をも対象に男性性に注目することをコンネルは示唆する)」に注目しているコンネルは“The Men and the Boys”という著作も出していますから、「教育こそが連合のポリティクスの鍵となる現場である」(p.328)と主張する心意気はわかります。2冊とも未邦訳ですが、読む予定です。


この第10章のあとには、補論「男性性をめぐる現代のポリティクス」が続きます。10章まででは解消・回収しきれてないところがあるのは、読者の私からしても同意します。

お疲れ様です!

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