レイウィン・コンネル『マスキュリニティーズ』
訳:伊藤公雄ほか
2022年 新曜社
第2章「男性の身体」p.57-p.87(原書p.45-p.65)
「真の男性性は、男性の身体から生じ、男性の身体に固有のものであり、あるいは男性の身体に関する何事かを表現しているもの」(p.57)という、ジェンダー・イデオロギー戦略の一部をなすような“思い込み”がいかに間違っているかを示すのが、この第2章の仕事です。
私の話。性別移行を経験した身からすると、今なら「男性の身体」がいかに「固有ではない」ものか、実感します。
たとえばあるバイトの現場で、こんなことがありました。私のことを以前から知っている人は私を「女性」とみなし、初対面の人は「男性」だとみなしていました。このとき私の身体は、私を女性だと思っている人からすれば「女性の身体」ですし、男性だと思っている人からすれば「男性の身体」ということになります。同じとき、同じ場所を共有してさえ、性別の枠組みはあやふやです。
あるいはまた、男性ホルモン治療をして一年ちょっとしか経っていないときでも、健康診断を男性側で受けていて、なんの不都合もなかったのです。「こんなんでいいの?」と拍子抜けするほどでした。「男性の身体」とは、なにを言っているのでしょうか。
●「自然な男性性」なんてない
コンネルは笑っちゃうほど的確に、「真の男性性」とか「男性の身体が、女性より優位である」みたいな主張を、退けています。
「ジェンダー・イデオロギーを正当化する宗教の力が崩壊して依頼、その隙間を埋めるものとして生物学に助けが求められた。どんなにこうしたことが必要だったかといえば、想定された性差を科学的に発見する物語を貪欲に発見する保守的なマスメディアの姿を見れば推測できるだろう。」(p.59)
強引な「自然な男性性」テーゼは、ジェンダーにおける通文化的あるいは歴史的な多様性をみれば、“思い込み”にすぎないのだとわかります。
例えば、レイプがほとんど存在しない文化があったり、同性愛的な行動が多数派であったり、子どもの世話を担う人物が母親ではなかったり、男性がちっとも攻撃的ではなかったり。「当たり前」だと信じてきたことは、決して「当たり前」ではありません。
ただ、コンネルは身体それ自体がまちがいなく重要であることも認めています(p.65)。身体は老化し、病気になり、感情を生じ、京楽し、子どもを産みます。身体の特徴を消し去れる、などとは考えていません。
では、一見相反するような生物学と文化の両方を認めたジェンダーの複合モデルならば、私たちをうまく処理できるのでしょうか。
・・・いいえ、すぐに答えは出ます。そんなことは、やる意味がありません。なぜなら生物学的決定論が間違っており、社会的決定論も間違っているならば、そのふたつの組み合わせが正しくなるわけがないからです。また、そのふたつは対等な存在ではないのだから、「分析のレベル」を満足いくように足し合わせることはできません。別の考え方が必要です。
●男性性と「健常身体」の結びつき
第三節は、「逃げることのできない身体」。
まずセクシュアリティのインタビューから始まり、その性的な描写がスポーツの文脈につながって語られていることが指摘されます。
男性性は身体パフォーマンスをとおして構成されます。ということは、身体障害の結果そのパフォーマンスが維持できない時、(男性としての)ジェンダーが傷つきやすいということです(p.70)。
私が思うに、「男性」は「健常身体」であることが前提とされていますから、「身体障害のある男性」は「男性ではない」かのように阻害されます。障害を抱えている女性の場合は、そもそも「女性」というカテゴリー自体が不可視化されてきたなかでさらなる不可視化をあじわうのでしょうが、障害を抱えている男性の場合は、「男性」というカテゴリーそのものは自明とされてきたにもかかわらずその中に含まれてこなかったわけで、同じように「障害がある」のだとしても、男性と女性では置かれる境遇は変わると予測されます。
河野真太郎さんは『新しい声を聞くぼくたち』第4章「「のけものたち」の時代」で、障害に着目して、以下のように問います。
「男性性がある種の規範的健常性/健常身体と結びつけられるものだとして、」(河野、p.136)新しいミソジニーもしくはポピュラー・ミソジニーといわれる有毒な男性性を解きほぐす方法はあるのか、と。
おそらくトランス男性が不可視化されてきた理由もここにあります。想定されてきた男性の身体とはパーツが異なるため(雑な言い方をすると、トランス男性の身体は「障害のある男性」の範疇で考えられるはずです。身長が低かったり、男性不妊だったり、不正出血(生理)があったり)、前提とされてきた「(シスジェンダーの)男性」たちは、戸惑っているのでしょう。
●男性の身体は虐待されている?
コンネルは、肉体労働者も男性性が傷つきやすいのだといいます。労働を通じて自らの男性性を定義しなければならない状況そのものが、当の傷つきやすさを生んでいます。だからこそ労働者階級の男性は男性性を強調することがあるのですが、この状況は経済的な現実を反映しています。新自由主義下における階級の問題、ともいえるでしょう。
マイク・ドナルドソンの調べによると、「労働者階級の男性の身体能力は経済的財産であって、彼らが労働市場に売り込むものである」(p.71)のです。疲労やケガを負っても、身体を担保にして、つまりは身体能力を経済的財産にして、彼らは自分を保っています。
男性が身体に圧力をかけるとき、それが男性性と成績の名において賞賛されているようにみえても、実際は虐待されているのです。マイケル・メスナーは元アスリートにインタビューして、プロ選手の身体が道具として、もっといえば兵器として取り扱われたことを聞き出しています。「兵器としての身体は、究極的には自分自身の身体に対する暴力に至ることになる」(p.75)。
似たエピソードは、尹雄大さんの『さよなら、男社会』3章にも寄せられています。父親が力を誇示するほど明らかになっていくのは、そうした態度をとる父自身が「戦争体験のトラウマを内包していた」「PTSD(心的外傷後ストレス障害)なのではないか」ということです。
さらに興味深い例が、第5章にあります。サーフ・スポーツのナショナル・チャンピオンであるスティーブの例です(p.82-83)。
彼は(悪い報道がされないよう)飲酒運転ができず、ケンカに加わらず、どんちゃん騒ぎをせず、(コーチからの禁止と、トレーニングスケジュールに合わないために)セックスライフを多くは楽しめなかった、といいます。つまりスポーツのチャンピオンという「男らしい」境遇にみえるスティーブですが、男性の仲間文化として定義されている多くのことが禁じられていたのです。
「スティーブのヘゲモニックな男性性を構築する身体-再帰的実践は、同時に、ヘゲモニックな男性性の基盤を掘り崩していた。」(p.83)ここからは、矛盾した男性性が見いだせます。
身体は、男性性の構築において不可避のものです。
しかし何が不可避なのか、その実情については一定していません。歴史や政治が、身体的な過程を左右させます。
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