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『マスキュリニティーズ』第4章「生き急ぎ、そして若くして死ぬ」メモ

レイウィン・コンネル『マスキュリニティーズ』

訳:伊藤公雄ほか

2022年 新曜社

第4章「生き急ぎ、そして若くして死ぬ」p.121-p.157


面白い!著者のコンネルは今では「(トランスジェンダーの)女性」だけど、当時は思いっきり「男性」として、インタビューしていた様子がうかがえます。トランスに関する記述も、今ではNG出そうなくらい他人事っぽい言い方。

男性性の変化についての議論は、1990年代の時点で「中産階級の専門職男性」に焦点を当ててばかりなので(2022年現在もほとんどそうだわ)、ここではそうではない男性たちに焦点を当てています。

第4章は、「労働者階級の若者」へのインタビューです。インタビューした8人の対象者のうち、5人は失業手当を受けており、ほか3人は肉体労働者の子どもではあるがホワイトカラーの仕事をしています。母親も働くのが当たり前の家庭環境だったため、「女性が働くこと」に抵抗ある人は少ないのだとか。その点で「ポストモダン」的だね、と。

かつては「安定した雇用」をとおして「労働者階級の男性性」の典型的モデルがつくられていたのに、今ではすっかり過酷な状況です。男性性というのは、特定の職場で決まるのではなく、全体としての労働市場との関連の中で形作られるものです。


登場する若い男性たちは、皆さまざまな仕事を経験していますが、だいたい短期間でチェンジしています。だから「その手紙の区分け係としては〜」「その羊毛刈りの仕事では〜」と話を展開するよりも、雇用が安定していないという全体像から見ていったほうがいい、ということでしょう。生計を立てるために、犯罪にいきつくことも珍しくはありません。車の窃盗や薬の販売などの犯罪も、稼ぐための手段ということです。

困ったときは労働組合を頼れそうなイメージがありますが、といっても労働組合はひとつの産業で長期間勤めた人が草の根てきな団結を頼りにするもの。だから短期間でコロコロ職場を変える彼らのような存在にとっては、肩入れする理由がないのですね。

ショーン・フェイの『トランスジェンダー問題』第5章では、「国家」(政府、警察、刑務所含む国家権力)が、社会的に力のない層にとって抑圧として働くことが述べられています。コンネルがインタビューした労働者階級の男性にとってもそうです。

国家権力は、抽象的なものではなく、若い男性の生活の中で現実的な実在です。たとえば学校教育は、彼らをエンパワーメントするよりも、「外的権力」として衝突する対象だといえるでしょう。学校で暴力を振るったり、不登校になったり。やがて彼らは退学します。


おそらく中産階級の男性にとっては、国家権力が男性性の行きつくレールを示してくれる可能性がありますが(いい学校に行って、いい会社に入って、決して犯罪者にならずに......)、ここでの労働者階級の男性たちにとっては「国家」は従うべきレールではありません。


さて、セクシュアリティに関して。

自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと』を読んでも実感したのですが、ふつうに男性が話し出すと、ミソジニーが滲み出てきます。だから私からすると、とっても読みづらいです。赤裸々に語ってくれている調査結果を潰すわけにはいかないから大人しく情報を受け入れるしかないのですが、それにしてもいったい全体これほどまでに女性への認識が歪むものかな、と。


たとえばインタビューした労働者階級の少年たちは、ガールフレンドが妊娠すると自分を責めるのではなく、相手に怒り出すのだといいます。避妊を教わる場もなければ道具を調達するお金もない環境下で、自分が「父親」「大黒柱」役割を急に負わされるかもしれないとなったら、「怒り」しか感情が出てこないということなのか.....。

同性愛について。異性愛的でホモフォビアを抱えていたとしても、エイズ予防の調査が見出したように、労働者階級の生活においても同性愛の可能性はあるのだといいます。

インタビューをうけたポールは、男性間での性的な戯れについて述べています。(この後ポールは異性装で解放をあじわい、「女性」として生きていくらしいのですが。ポールは「性転換(手術)」まではしないようだ、「男性性のポリティクス」で理解できそうだ、とか言ってコンネルが他人事なのがおもしろいです。日本でいうと、ポールは蔦森さんっぽいのかな。)


第4章「生き急ぎ、そして若くして死ぬ」のなかで何度も読み返したいのは、第8節「逸脱した男性性とジェンダーポリティクス」(p.151-p.157)。


「抗議的男性性は周辺化された男性性である。それは、広義には社会におけるヘゲモニックな男性性というテーマをともなってはいるが、貧困という文脈でみれば、このテーマの修正に繋がっている」(p.151)

抗議的男性性は「周辺化された男性性」の中のひとつとして挙げられていますが、だとすると「ヘゲモニックな男性性」でもなく、「共謀的男性性」(p.103)でもない理由を、どう説明すればいいのか、私には難しく感じられました。

共謀的男性性」(Protest Masculinity)とは、「ヘゲモニックな投企とつながりを持ちつつも、ヘゲモニックな男性性は体現していない」で形成された男性性。具体例をみれば、「共謀的男性性」と「(周辺化された男性性である)抗議的男性性」が別ものだとわかるのですが、まだ捉えどころがないなぁという印象。

でもその理由はずばり、私自身が「抗議的男性性」と縁遠い生活を送ってきたからなのでしょう。むしろ、「抗議的男性性」を発揮させているヤンキー中学生男子たちから、性的なちょっかいを出されて不服に思っているような女子中学生を私はやっていたわけですから、全然立場がちがうのは当たり前です。


「抗議的男性性」については、現代日本の「弱者男性」の心理を考えるうえで役立ちそうです。おそらく「弱者男性」と名指されるゆるやかな対象群というのは、「階級」が労働者階級であるというよりは、介護に明け暮れていたり、身体的な障害で苦しんでいたり、あるいは優しすぎてコミュニケーションに難があったり、というさまざまなケースがあって、「階級」の一点で語ることは不可能です。

ただ、気の持ちようとして、「ヘゲモニックな男性性に預かるべき「男性」の自分が、実際には社会的マイノリティの境遇を味わっていて辛い」という動機で、人権問題として冷静にフェミニズムや女性に向き合えなくなっていることはあるでしょう。あるいはそれ以前に、「自分自身の生活(生存)で必死だから」、文中の表記を借りれば「経済的、文化的脆弱さによって無効にされ続けている(p.153)」から、世の中が求めてくる「男性像(≒ヘゲモニックな男性性)」に適応できない、ということはありそう。

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