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『マスキュリニティーズ』第6章「とてもストレートなゲイ」メモ

レイウィン・コンネル『マスキュリニティーズ』

訳:伊藤公雄ほか

2022年 新曜社

第6章「とてもストレートなゲイ」p.191-p.226


原書は1995年刊行とはいえ、ゲイコミュニティに属している人には納得の点も多いのかも?私はほとんどそうした関わりがないので、ゲイ男性8人へのインタビューは逐一おもしろかったです。


この第6章の顛末については、森山至貴さんの論考「ないことにされる、でもあってほしくない 「ゲイの男性性」をめぐって」(『現代思想』2019年2月号:「男性学」の現在)を事前に読んでいたので、大枠は知っていました。

「ゲイの男性性」とは「ゲイに固有の男らしさ」というゆるやかな意味合いだとして、森山さんはコンネルを引き合いに出しています。そして、ゲイも異性愛男性と変わらず「男らしい」だけであって、「ゲイに固有の男らしさ」の記述はどこにもなく、「ゲイ保持している一般的な男性性」の話でしかない、ということです。


コンネルの記述によると以下のとおりです。ほぼ結論部分ですが。

皆、過剰な男性性には否定的であった。他方で、クイーンつまり女らしいゲイたちとも距離をおいていた。(p.217)


実態は、マッチョなゲイ像でもなければ、異性愛男性が位置付けたがるような「女々しい」やつがゲイであるというわけでもない、と判明します。



●調査の興味深い結果

・子どもの頃に男女両方と性体験があることは、ゲイだけでなく異性愛男性のライフヒストリーにも見出せます(p.198)。幼いころに男性とセックスしたからといってゲイになるわけではないのは、異性愛男性が示しているとおり。逆に、女性と関わってきたゲイもいますし、インタビューした8人は全員女性との性体験がありました。ただし、男女両方との経験があるからといってバイセクシュアリティを採用するゲイは少ないようです。


・インタビューしたゲイたちは理想として、永続的なカップル関係を望んでいました。「その場限りのセックスに開かれている」だけなら異性愛男性も男性間セックスをおこなうことがありますが、この相手だけだという関わりがゲイたちに強調されていたのは特徴的です。


・「ゲイはお洒落」みたいなのは偏見だと思っていましたが、意外な背景も。異性愛の兄弟が田舎育ちの飲んだくれとなっていく(古典的な男性性を示したり、結婚や子育てに追われたりすることも含むでしょう)一方で、ゲイは社会的ネットワークを手に入れるため大都市へ繰り出していることがあります。異性愛男性のイメージと比べれば、「ゲイの男性性は、すべて洗練されており、近代的」(p.217)なんだとか。


ゲイのコミュニティに関わるには大都市への移動が必然的に求められるの、キツイですね。


・ただし、両親との関係が悪いというわけではないようです。伝統的な精神分析では、同性愛は「両親との病理的関係」に位置づけられることがありますが、事実とは異なります(p.220)。


・家族との関係性では緊張を生み出すリスクのある「カミングアウト」ですが、それは一方で、すでに周囲にあるゲイの社会環境へとカミングインすることを意味しています(p.212)。ゲイだと隠さなくていい環境が、そこにはあるからです。


・ゲイはゲイでも、年代によって差があります。地方都市の若いゲイたちがパーティを主催した際に女性を招待したら、年配のゲイたちはそこから出て行ってしまった(女性を排除・嫌悪しているよう)一方で、若いゲイたちは女性との友愛をつくりだすことに価値を感じていたそうです(p.221)。

上記は1980年代後半〜1990年代前半のエピソードのはずですが、これが「時代によって変わる」のか、「その人の世代によって変わる」のか、興味深いです。この頃「若いゲイ」だった人たちは、30年経って「年配」になった今でも、女性に対してフレンドリーなままなのでしょうか。


・フェミニズムに対する態度は、異性愛男性が無知であるのと同じ程度に、ゲイも無知だったそうです(p.222)。こうした冷静かつ批判的な記述に、コンネルのフェミニストっぷりが溢れていて愉快です。


ほとんどのゲイたちは、ただ男性のように行動していました。ゲイだから「女らしい」わけでもなく。コンネルは、ゲイの姿は「現存するジェンダー秩序に対する挑戦には開かれていない」(p.224-225)と、まとめています。

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