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『マスキュリニティーズ』第9章「男性性のポリティクス」メモ

更新日:2022年9月15日

レイウィン・コンネル『マスキュリニティーズ』

訳:伊藤公雄ほか

2022年 新曜社

第9章「男性性のポリティクス」p.279-p.307



女性のいない民主主義』というドンピシャなタイトルの本もありますが、そうです、「公的なポリティクスとは男性のポリティクス」(p.279)をさしています。「男性性のポリティクス」の定義は、「男性というジェンダーの意味を問題化し、ジェンダー関係における男性の地位を問うような政治的動員と闘争」(p.281)のことです。まれに女性がリーダーに選出されることがありますが、それでさえ女性のネットワークを通じてではなく、男性のネットワークの例外的な活用によってその地位を手にしています。


原書の『マスキュリニティーズ』出版から20年ほど経ってから世に出た『LEAN IN』(2013)は、Facebookの最高執行責任者となった女性リーダーのシェリル・サンドバークによる本です。しかし、それだけ時間が経ち、ごく少数の女性が社会的地位を確保するようになってもなお、男性の輪のなかで女性としてやっていくことの厳しさがみえます。それまでその場に女性が商談にきたことがなかったため女性用トイレがなかった、ふだんからそこにいる男性たちはその事実に気づきもしなかった、なんてエピソードも登場します。女性がリーダーになることに対しては、男性からだけでなく女性からも抵抗を示されるのだといいます。


コンネルの辛辣で的確な記述に戻ると、こうです。

「世界の強国の中でもっとも頑固で不可解な家父長制が残っている日本では、同じ1990年、議員における女性の割合は2パーセントである」(p.279)


コンネルは、男性について論じるときはこれらの数字を逆にすることを提案しています。つまり、日本の国会議員は98パーセントが男性である、と。ごめんなさいコンネル、2022年になっても「頑固で不可解な家父長制」が残っている日本では、85.7%が男性です(女性の国会議員は14.3%、内閣府の男女共同参画局より)。


もちろん、男性性は単一のパターンを描くことはありませんから、男性性のポリティクスは複数の形態をとるでしょう。とはいえ無限でもありません。コンネルは、男性性のポリティクスを大きく分けて4つの形態にわけます。


男性性のセラピー:ダメージを受けた男性性を取り戻そうとする、共謀的男性性の持ち主たち

銃のロビー活動:男性的なヒロイズムを彷彿とさせる、ヘゲモニックな男性性の防衛陣

ゲイリベレーション:決してヘゲモニックな男性性と同化しない、ゲイポリティクス

脱出のポリティクス:異性愛男性であっても家父長制に与したくない、メンズリブの兆候


つづく第2節〜第5節でくわしく見ていきましょう。


●第2節 男性性のセラピー


1970年代初期から1990年代まで米国でよく語られる男性性のポリティクスの特徴は、異性愛男性にジェンダー関係が負わせる傷の癒しに焦点化したもの。精神科医や臨床心理学者が開拓し、一般社会に支持層をひろげた一連の動きを、コンネルは「セラピー」に含めています。


当初はリベラル・フェミニズムに近い活動でしたが、だんだん奇妙な動きをみせてきます。それもそのはず。対象となる男性たちは、女性との関係を調整する用意があり新フェミニズムっぽくみえるわけですが、根本的な点ではそれを変更する覚悟がなかったため、たやすく反フェミニズムへ転換してしまったのです。


コンネルが原書執筆中に、ワレン・ファレルが『男性権力の神話』を出版しました。これは「女性が経験する無力さには多大な注意が払われてきたが、今度は男性が経験する無力さに注意を払う番」(p.284)として、「男性差別」の事例をつらつら挙げた一冊です。

『男が崩壊する』『内なる男性』を出版したハーブ・ゴールドバーグや、『アイアン・ジョンの魂』を書いたロバート・ブライも、ファレルと同じような意見でした。今や、男性がフェミニズムによって不当な非難を受けている、とまで考えてしまったのです。男性が女性の4〜5倍(あるいはもっと)政治や企業の場を占めていてもなお、そんな間抜けなことを言う......。

ある地点までは、「男性が被る不利益」に視点をあてることは大事ですよ。そりゃあそうです。たとえば日本では、かつて強姦罪で性被害が女性に限ったものとして想定されていましたが、2017年に強制性交等罪になったことで、性別関係なく、男性の性被害にも目が向く内容となりました。こうした必要な取り組みをていねいに掬い上げていくことは大事です。


そうしていればいいのに、なぜか女性を敵視し出し、右派寄りになる。なぜでしょうか?

コンネルによれば、それがまさに「共謀的な男性性」だからだとわかります。「男性性のセラピー」のクライアントは、まったく責任を感じることはなく、自分自身がヘゲモニックな男性性の担い手ではないという意識をもっている」(p.288)のですから。しかし、実際は彼らは抑圧された者ではありません。


最高なので、二文そのまま引用します。

「ファレルやゴールドバーグ、ブライといった作家は、白人の異性愛者でミドルクラスのアメリカ人という読者層のみを前提としている。彼らによって話しかけられている男性とは、家父長制を守るために戦闘的になることはないが、家父長制から目立たない形で利益を得ている男性たちなのである。(p.288)」


「男性差別がある!」といっても、その男性とは男性の中でもマジョリティ属性の人だけを見ています。白人女性のフェミニズムが黒人女性にツッコまれたのと同じことが、男性でもいえますね。

しかも「男性差別」や「男性蔑視」を取り上げるときに、男性が被害をうける個々の事例に注目するのではなく、構造をはきちがえるのであれば、まさに彼らは「共謀的な男性性」で家父長制の恩恵にあずかるサイテーなミソジニストとなります。


●第3節 銃のロビー活動


象徴的レベルでも現実のレベルでも、銃の所有権を守ることはヘゲモニックな男性性を防衛すること、なのだそうです。

ヘゲモニックな男性性がつくりあげた制度は、普段あたりまえの顔をして企業や国家を動かしていますから、主題化されもせず不可視化されています。ヘゲモニックな男性性が可視化されるときがあるとすれば、それはまさにジェンダー秩序における危機的兆候が現れ、ヘゲモニックな男性性が揺らぐときだけです。それゆえ「ガン・ロビー」(銃関連のロビー団体)のようなポリティクスが生まれます。


軍隊、戦士、英雄。

ヘゲモニックな男性性の定義にとって、ヒロイズムのイメージは欠かせませんでした。けれども、超男性性的なイメージがある撃墜王マッカデンの自伝に明らかなように、過激な英雄のイメージと実態はかけ離れているものです。最前線にたつ兵士もそうで、メディアの作り出すイメージとはギャップがあり、退屈さが大半を占めているのだといいます。

ただ、そんな現状と乖離したヒロイズムであっても、文化的にヘゲモニックな男性性を支えていたのは間違いありません。


ハリウッドはスタローン『ロッキー』『ランボー』、シュワルツネッガー『ターミネーター』など大スターを通して男性性を提示してきました。米国映画の研究者ジョアン・メレンは、「男性ヒーローに許された感情表現の幅の狭さ」(p.294)に言及しており、私はまったく同意しますが。泣くのが禁じられるだけでなく、笑うことすら禁じられている気がします。

FtM(トランス男性)に関していえば、「笑うとパス度が下がる(ので、笑わない)」という話も聞いたことがあります。男性全般が、ヘラヘラ笑っていると「男らしくない」とみなされるからなのでしょう。


●第4節 ゲイリベレーション


ヘゲモニックな男性性に対抗する案としては、同性愛の男性性が引き合いに出されます。

このあたりの歴史、けっこう都合よくゲイが扱われていたように感じます。19世紀後半の歴史家は同性愛者たちを「中間的性」のひとつと解釈していたとか、精神分析によれば伝統的な男性性がはらむ抑圧された真実(同性愛願望?)を体現しているとか。ゲイはゲイである、以上!でしょう。


リベラル・フェミニズムが体制側に足場を得ると、ゲイポリティクスは「システムを打ち壊す」よりも「システム内に場所を確保するよううまくたちまわる」方に取って代わったので、ラディカル・フェミニズムとは協力関係が弱まっていきました(p.298-299)。


●第5節 脱出のポリティクス


これは興味深いです、私も知りたい。

「異性愛の男性であっても、家父長制に反対することは可能であり、ヘゲモニックな男性性からも共謀的な男性性からも脱出できるはずだ!」という試みについて。


1970年代のメンズリベレーションで意図され、今もなお続いていそうな活動は、

性差別に反対する男性たちの全国組織NOMAS(National Organization for Men Against Sexism)と、ホワイト・リボンキャンペーンくらいなのでしょうか。「男性性のセラピー」が反フェミニズムに傾いていったのとはちがって、「女性運動に対する男性の補助的役割」(p.302)を忘れないようメンズリブの人たちは努力したようです。たいてい小規模ですし、フェミニスト男性が孤立させられがちという問題はあります。


もし「(男性として)ジェンダー内部で反体制的なポリティクスを試みる」のではなく、むしろ「ジェンダーから脱出すること」に寄った場合、それは「トランスベスタイト」と「トランスセクシュアル」と呼ばれる“特殊化された性的なアイデンティティ”として定義されます。

ただ、そう定義づけて審判員の役割をはたすのも異性愛者の男性医師なのですから、「ヘゲモニックな男性性は、男性性からの脱出口さえも規定するのである」(p.305)と、コンネルはそこまで見通しています。

MtF界隈の人が、「男らしさに違和感のあるやつは、女になってしまう」と冗談いうのもあながち嘘ではないというか.....。いやはや、これだけ素晴らしい記述をしているコンネル自身も数年後には「女性」になっているので笑えないような。

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