『はじめて語るメンズリブ批評』(蔦森樹編、東京書籍、1999)が世に出てからもう23年経つ。「男性」に限らず、他の性別からもなにか自分の言葉で語ろうとする者たちの文章が並ぶ。編者は、『男だってきれいになりたい』『男でもなく女でもなく』の著者、蔦森樹(つたもりたつる)さん。
トランス男性の立場からメンズリブに参入するのは厳しいのでは?というざっくりした印象の、理由が書かれていた。
いつまでたっても、メンズリブが語られるとき目にするのは、「〈男らしさ〉に縛られている男たちの苦しさ」「男らしさを脱ぎ捨てよう」などの〈公式見解〉のような無難なコメントばかり。(稲邑恭子、p.125)
「男らしさ」の獲得に一時的には向かっていけねばならないであろうトランスジェンダーの人間にとって(そうしなければ出生時の性別で女性としてミスジェンダリングされ続ける)、そこから脱しようとするメンズリブはさっそく方向性が違う。まずそう見えていた。一応言っておくと、『はじめて語るメンズリブ批評』ではそうした“男として”“あるべき論”にとどまらず、「わたし」という独立した言葉で語るよう試みられている。
潔い発言がしづらい状況にあるというのは分かる。男社会だけを相手にすればいい(!?)フェミニズムとは違って、生みの親である男社会と育ての親であるフェミニズムの双方に配慮しつつ発言しなければならないという事情は。(稲邑恭子、p.125)
男性学やメンズリブが、フェミニズムを通過してきた視点ではどうしたって型が少なく、なおかつその少ない型に嵌っていて、解像度が粗く見えてしまうという事象もよくわかる。「個」が宿す迫力に欠けているからだ。
「男の加害者性」を男性全般に問うべき、という主張ももちろんあるだろう。1979年結成の「男の子育てを語る会」では、1989年頃からそんなキーワードが出てきたそうだ。(大塚健祐、p.72-73)
「男の加害者性」を考える一方で、「男として抑圧されてきた部分」、すなわち「男の癒し」を求めるというのは、同じ土俵では進められない。とはいえ対立させるのではなく、別の問題として考えることはできるはずだ。
私のなかでも、トランジションしてようやく「男性」同然になったと思いきや、すぐさま「男の加害者性」を自分ごととして問いなさい、と言われたらそれは無理だ。同じように戸惑うシス男性もいたということだろう。構造上の男性優位は未だ根強くあるのだが、国会議員の9割が男性だとしても、「僕と同じく男性が議員になれている!男性で良かった!」などと到底喜べない「男性」もいる。むしろ、そんなふうに権力に居座る男性を迷惑だと感じる「男性」もいる。
「男の加害者性」を考えるときはほぼ確実に被害者となる「女性」の存在を想定している。けれども「男として抑圧されている」と感じるとき、その睨む先に「女性」が立ちはだかっているわけでは決してない、後者は女性を絡ませた問題ではない(部分的には関係あるにしても)。男性社会の内部の話だろう。そもそも枠組みが異なるのだから、もちろん「加害者性」と「被抑圧性」の両者は同時進行で語っていける話だ。
私は本『トランス男性による トランスジェンダー男性学』の中で、“シス男性が「本当に自分は男性なのか」「なぜ男性なのか」「男性であるとはどういう状態か」と毎瞬間考えていない”(第4章)と書いた。フェミニズムが女性とは何か自身に突きつけているのとは、差がある。なので、男性として生まれ育ってきた者が「男とは、何なのだろう」と思考する場面にはシンプルに興味がある。
男とは、何なのだろう。〜 九◯年代は新しい男性像が求められる時代なのだとも言われてきた。だが、具体的な姿は見えてこない。なお社会は男が支配しているとも言われる。しかし支配しているはずの男の具体的なイメージのなかでポジティブなもの、生き生きとしたものは今あるのだろうか。子どものときから今までのことを思い出すと、男というのは、仲間、友人を構成するときの言葉や文化なのだと思う。(足立広明、p.130-131)
「PTA、子ども会役員の三分の一は男性保護者がやればいい。親ではなく、祖父母や兄弟、親戚などが育てている場合でも、誰か出てきてもらおう。」と足立広明さん。
本書とは別だが、田中俊之さんは日常生活の場を4分類している。社会はそうした複数の領域で成り立っているにもかかわらず、会社で働くだけの人を「社会人」と呼んでいる現状があり「働いてさえいればいい」という認識に繋がるので警鐘を鳴らしている。田中さんでいうところの「地域領域」に、男性も参画していこう、そうできるように教育行政のトップで考えを改める必要がある、と2人の子どもを育てている足立さんは提案する。そうすれば、私服の男性がひとりで平日の昼間に歩いていても、「不審者か?」と警戒されることも減るだろう。
『男がつらいよ 絶望の時代の希望の男性学』(田中俊之)より
フェミニズムもメンズリブも「最終的な出口ではない」(内田聖子、p.183)から、もっと膨らませていける。
(また書くかも)
Comments