2021年11月。
高井ゆと里さんより、『シモーヌ Vol.5 特集「私」と日記:生の記録を読む』をご恵贈いただきました。ありがとうございます。
並んでいる文章の数々の中でしっかり読んだことがあるのはアンネの日記くらいかな?という私なので、他の方々の文章も非常に面白く読みました。アンネの日記を読んだとき、アンネも本当にただの少女なのだ、と思い知らされた記憶。もちろん日記ですから、本人や他者による加工もあるでしょう。等身大とは言い難いです。それでも普段そばにいるのとは全く違った形で生身の人間として、その人が生き返るように感じます。
P.62『時計の針を抜く トランスジェンダーが閉じ込めた時間』
ゆと里さんは私(あきら)のブログ(note)も引用してくださっています。
私自身が書いたnoteも、ゆと里さんが書いたシモーヌの文章も、もうすでに過去になって現れている今、引用していただいた当人としてではなく、また別の私として、思ったことを書いてみます。
トランスジェンダーは「もしかしたらあなたの隣に」いる。私たちは「すでに隣人」である。
ああ、でも。その「現実」にどれだけの人が気づけただろう? ゆと里さんが綴るような言葉たちがごく自然に受け入れられていたら、過去の私はもっと早くトランジションしていたに違いない。私にとって、トランスジェンダーは他人だった。虚像だった。そうとしか知らなかった。ここ、文法でいうなら大過去である。酷いことをした。かつて知り合ったトランスの人々に対しても、私自身に対しても。トランスに否定的な言説が「普通に」蔓延している世の中で、ぼけっと生きていたらトランス当事者だってトランスヘイターになる。トランスジェンダーは私にとって「未来人」であった。私の日常には関係ない存在であり、私自身がトランスであろうはずがなかった。私の日常はまがりなりにも回っているのに、そこにトランスジェンダーが姿を現す?信じがたい話であった。ここ、文法でいうなら大過去である。
私は「性別を変えてやる」と決心したわけではない。まず「身体を変えてやる」と思ったのだ。それに伴い、女性ジェンダーから男性ジェンダーへの移行を経験するだろう。ジェンダーの移行は否応なく付随するので仕方なく引き受けてやろう、としぶしぶ了承したわけだ。それが案外、男性ジェンダーでやっていけるらしい、とわかった。単なる結果論である。結果として、私はトランスジェンダーということになった。自身のトランスフォビアの毒を抜くのは容易ではない。毒を注入するのは簡単だ。トランスジェンダーに決して肯定的ではない世の中で、ぼけっと生きていればよい。あなたは何もする必要がない。そうすればトランスヘイターの出来上がりである。
私自身の経験に遡れば、私はまず自分がトランスジェンダーとされるところの存在であると認めなければならなくなった。でなければ、死んでいた。生きるための、トランジション。けれど自身をトランスジェンダーと仮定すると、シスジェンダーではないことになる。一生シスジェンダーの人生は手に入らない。ここで私に、シスジェンダーの女性として生きていけたはずではないか、と述べる人がいたなら、それは間違いである。私はシスであれトランスであれ、男性であることに寄っていくしか延命方法がなかった。男性化を決めた時点で、女性との連なりは絶っていた。そして、シスジェンダーの男性である状態はもうつくれない。トランスの男性としてしか、生きられない。それが受容できるかどうか。端的にいうならば、非常にミサンドリーを抱えていた私にとって、「男性」はなりたくない存在であった。良い男性のサンプルはあまりにも少ない。なりたくなかったアレ。でも、なるしかない。
私は「男であろう」としてこなかったと思う。しかし、私は狭義でラブホリック(loveholic, 恋愛中毒)だった。男性として求められることは官能的だった。初めはくすぐったかったが、やがて当たり前のことになり、時々その変化を自覚しては喜ばしく思う。トランスの人々とも出会った。トランスに対する毒素が抜けていったのは、そんな出会いがあったからだ。これまで想定していた「女」「男」とは異なる身体を持ち、異なる経験をもつ人たち。けれども、彼女は女性だった。彼は男性だった。私も、そんな少しだけ異なる身体を持ち、少しだけ異なる経験をしてきた男性として受容された。居心地は悪くなかった。 いくらか空気が潤った世界で、時は動き出した。それでもまだ、ときには環境をリセットするために引っ越し、手術のために誰かに干渉されることを拒み、時を止めた。そしてまた無茶苦茶に暴れて時をつぎはぎし、かつて希望した世界を取り戻すために闘った。絶対、変わってやる。変わって、会いに行く。もし最初から、自身が思い描くような男性であったなら。あのときを逃しはしなかった。私はあの一瞬を逃さざるを得なかったけど、次があるなら絶対逃さない。
そう生き急いだ日々が落ち着き、ようやく少しだけ、幾何学的な時の流れに則って生活できる今はむしろ、変わりたいとは思わない。今日も明日も規則的に回っていってほしい。もう会えなくなったトランスの人々も、平穏無事に生きていてほしい。それだけである。
ちなみに、以前書いたnoteは読み返していない。だから重複することを書いたかもしれない。
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