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ヤスパースとアーレントの「戦争責任論」から家父長制を問うーーそしてトランス男性の所在

トランス男性による トランスジェンダー男性学』を書いた背景の一つかもしれない。


トランス男性(あるいはもっと広く性的マイノリティと見なされる男性)は、家父長制の仕組みの中で一見弾かれているわけだが、それでも"家父長"候補として利を得ることがあるとき、その「責任」の所在はいかん。


私は実生活の感覚と合わせて、かなり、自身を「性的マイノリティ」というよりは「性的マジョリティ」、あるいは「性的マジョリティに擬態して幸福を受理できることが出来うる、そしてそのことに自覚的な性的マイノリティ」になったなーくらいに捉えている。

厳密にはシスヘテロ男性になり得ないのだが、しかしながらシスヘテロ男性のように生活することがほとんど可能なようであるし、うまくいけば結婚や子供をもつことも実現不可能ではないし、女性が日頃受ける抑圧から逃れ、のほほんと幸せになっていける人間であるように思う…….そこでだ。


.......戦争やナチスをここで持ってくるなよ、というご指摘はあろうが、似たような構造はほかの様々な分野でも問われることではないか。ヤスパースとアーレントの語る「罪」と「責任」にヒントを得た。


参考:

ヤスパ一スとアーレントの戦争責任論一罪と責任の概念をめぐって 山田正行



●ヤスパースの『罪の問題』から


カール・ヤスパース(Karl Jaspers,1883-1969)の 『罪の問題(Die Schuldfrage)』 を元に話を進めていく。『罪の問題』は、第二次世界大戦後に敗戦国ドイツはいかなる罪を問われているのか、どのように責任をとるべきかを論じた本だ。


ヤスパースは、まず罪の概念を4つに区分している。(物事はそんなに単純じゃない、という事実はヤスパース自身がよくわかっているが。)


①刑事的な罪(KriminelleSchuld):

 明確に規定されている、法律に反すること。刑罰というかたちで、裁判所に裁かれる。

②政治的な罪(PolitischeSchuld):

 政治家や政府の行為にかんする国民の、態度や振る舞いのこと。ヒトラー政権といえども選挙の結果成立したのだから、ドイツ国民には政治的な責任が問われる、という。

③道徳的な罪(MoralischeSchuld):

 内心ではナチスに賛同していないが、妥協や付和雷同をしたこと。他者の苦しみに見て見ぬふりをしたこと。

④形而上的な罪(MetaphysischeSchuld):

 どうしようもないことだけれども、他の人が死んで、私だけが生き延びてしまったときの、名状しがたい不条理の感覚。これを裁ける(裁いてくれる)のは神だけだという。


ちなみに、②政治的責任は講和条約が締結されれば「終わり」だが、③道徳的な罪と④形而上的な罪には「終わり」はない。ヤスパースは「罪」と「責任」を分けているが、ここではその説明を省かせてもらう。


4つの罪が明示されたが、ここで重要なのは「個人的な罪」と「集団的な罪」との区別だ。(一昨日このブログで「普遍論争」の話を書いたので、なんてタイムリーだろう!「私は私でしかないのだから関係ない」と唯名論的に責任を棄却できるのか、それとも「同じドイツ人として」普遍実在論に則って、責任と向き合わねばならないのか)


第二次世界大戦後、ドイツは全世界からいわれた。

「これはお前たちドイツ人のせいだ」と。


当のドイツ人にしてみれば、「私は戦犯ではなく、命令を執行しただけだ」「私だって殺されそうだった」「ナチスから逃れようとした」「愛する家族を失ったのに、なぜ私まで罪を問われるのか」など様々な物語があったことだろう。


ヤスパースは集団にまるごと判断を下すのは決してできない、と主張する。

それはむしろ、ナチスがユダヤ人に行った事態と同じだからだ。「集団に基づく思考法」を採用してしまえば、「ドイツ人が等しくすべて悪い」と非難することは、「ユダヤ人なら等しくすべて悪い」のだとして、比類ない厄災を起こしたことと根本が同じになってしまう。


だが、たとえいかに「集団に基づく思考法」が欠陥であっても、「集合的な罪のようなものを感じる」という言い回しをヤスパースは用いて、個々人のアイデンティティの基盤でもある生活様式へ の反省と吟味を促す。



●アーレントの指摘を踏まえて


ナチスの全体主義は、「ドイツ人ならば誰もが犯罪を犯すか、犯罪行為の共犯とならなければ生きていけないようにしてしまった」(山田)。ドイツ民族がまるごと「行政的な大量殺戮」に呑み込まれていった。実際は個々のドイツ人の立場は千差万別であったにもかかわらずに。それを外部からみると、区別できない。


ハナ・アーレント(Hannah Arendt,1906-1975)は、ヤスパースの『罪の問題』に対して、本質的にはすべて賛成としながらも、限定と補足の事項を述べている。そのうちの一つで、"「未曾有の残虐さ」を通常の刑事的な罪で裁くことはできない"とアーレントは述べる。

しかしヤスパースは、以下のように愛弟子アーレントに示唆する。

“ナチの所業を「悪魔的偉大さ」ではなく、その「陳腐さ」という観点から見るべきだ”と。現実に起こりうることであり、誰にでも起こりうることなのだ。


上記のようなヤスパースとアーレントの論は、他のあらゆる場面で応用可能に思われる。自国が関与する戦争や、原発問題、そして今回は「家父長制」が当てはめられるのではないかと。


●家父長制という虚像(フィクション)


家父長制は、家長権(家族と家族員に対する統率権)が男性たる家父長に集中している家族の形態を指す。実生活では「年長の異性愛の男性」に権力が集中しやすい。一個の家単位のみならず、社会のあらゆるところで家父長制は機能している。フェミニズムは性別によって差別されない社会を目指して、家父長制に立ち向かってきた。



ところが、この「家父長制」に別の見方もできる。

ときに悪魔的に大問題として掲げられているような「家父長制」であるが、しかしそれだって、確固たる枠組みも権力も何もない、平凡さが連なって組み上げられて大きく見えるだけの虚像に過ぎないのではないか。ヤスパースが「陳腐さ」でナチスを見なそうとしたように。


これは「加害者」が常に「加害者」として固定化され得ないのと同様に、「被害者」が「被害者」であり続けることもない、と示す。いつでも、誰だって、罪を負い、責任を問われる立場に立たされることがあるのだ。

しかしながら、その実態が見えなくなることもある。

たとえば、ドイツ人は「ドイツ人なのだから」と罪を問われたかもしれない。しかし、その中にはナチスに立ち向かう者もいれば、ナチスに傷つけられた者もいたはずだ。もちろん、ドイツ人とみなされた者は、ユダヤ人とみなされた者よりはずっと“優位”ではあれたかもしれないが。

一方で、「ドイツ人ではないから」と、本当はナチスに加担していたにも関わらず素知らぬ顔で罪を免れ、責任を放棄した外国人もいたことだろう。


たとえば、一見"家父長"に見えた男性は、「どうせお前も家父長なのだろう」と、罪を問われるかもしれない。しかし、"家父長"のフリをしている/させられている者の中には、実際は“女・子どもを統率する”なんて懲り懲りだと疲弊しているゲイ男性やアセクシュアルの男性もいたかもしれない。あるいは、つい一年前までは己も家父長制による女性差別の弊害を強く受けていたというトランス男性もいるかもしれない。ただし、家父長制に賛同しない者であっても、"家父長"候補とみなされたことで、なんらかの恩恵は受けたかもしれないが。

一方で、「"家父長"っぽくないから」と、本当は性差別に加担していた当事者であるにも関わらず、素知らぬ顔で罪を免れ、責任を放棄できた女性もいたことだろう。


ここで「罪 (Schuld)」「責任 (Verantwortung/Haftung)」という語が合わなければ、他に準ずる語を当てはめて考えてもらえればよい。


そもそも“家父長”とは誰だったのだろう。とりあえず年配のようで、とりあえず異性愛者のようで、とりあえず男性のような人物が祭り上げられていた、ということだろうか。その実、“家父長”に見えた者の内実は千差万別だった可能性すらあるが。つまり、“家父長”に見えていた者もすでに内部崩壊を迎えていたのかもしれない。もう少しポジティブにいえば、“家父長”と見なされた者も実のところ、脆く、クィア的で、愉快なものであった可能性さえあるのに。(私が拙著のなかで、「男性の内部に」トランスジェンダーは常に既にいる、という書き方をしたのと等しい。)

はて、責任の所在を曖昧にする機構が、家父長制に働いていたのではないか。


●トランス男性における「責任」の所在


ところで、やっと書き手の「私」、平凡に暮らしているトランス男性の一人である「私」を引っ張ってこよう。男性化してから思うのである。「ああ、生きやすい!」と。「これまで苦しんできた分、たくさん楽をしたい」と。


ええ、もしかしたら、以下のように思っていられるかもしれない。

「今後は女性差別同然の扱いを受けずに済むし、LGBTQとして可視化もされないし、性差別の被害者とならずに傍観者でいられるぞ!」

「夜道が怖いと語る女性の話を、“へえ大変ですね、僕はそれよか安心ですけど”と聞き流すことだってできる。同性のパートナーと手が繋げないと嘆く同性愛者をよそに、“へえ大変ですね。私はもはや異性愛カップルとみなされるので、平気でイチャイチャできますけどね”と見て見ぬふりをできる。」

......ああ、とても楽だ!


さて、私はどこへ行ったのだろう。

「罪の問題は他からわれわれに向けられる問題というよりも、むしろわれわれによってわれわれ自身に向けられる問題である。」(『戦争の罪を問う』、平凡社、1998年)


だから別に私という一トランス男性が、女性全般や性的マイノリティ当事者から、身に覚えのない「差別をやめろ」と迫られている、というわけではない。私が外部(ここでは、もはや外部と表現させてもらおう)から糾弾されているわけではないのだ。

ただ私自身が、私に対して、この男性化によって実感させられる境遇差で生じた優位性とどう付き合っていくのか、という問題である。

いうなれば、このような問いを。

「女性」や「性的マイノリティ」と見なされた時には受けていた差別を、「性的マジョリティ」と同一視されることで受けずに済む時、あるいはむしろ「女性」や「性的マイノリティ」への差別に構造上の加担さえするとき、その責任の所在は?



ヤスパースの提示した4つの罪に照らし合わせてみよう。

私が直接罰せられるような性暴力を働かなければ、「①刑事的な罪」はないだろう。


②政治的な罪」については、ここではこのまま意味を転用するのは困難だが、もし私が性差別的な異性愛者の男性をえこひいきして選挙で投票するようなことがあったら、責任が問われることだろう。


そして......

別に好き好んでシスヘテロ男性と同一視されたくない、と思っていたとしても、家父長制に倣ったシステムを利用したがらなくとも、そのことを受け入れて、そうではない立場の者ーー「女性」や「性的マイノリティ」という枠に押し込まれる人々ーーに対して不利益を与えたら、「③道徳的な罪」は発生するに違いない。


また、「女性を狙った犯罪が起きた」「同性愛者は結婚できない」という事態があったとき、もはやその対象にならずにいる(かもしれない)「私」は、「④形而上的な罪」を感じるのだろう。ああ、なぜ私だけはこんなに楽して幸せでいられるのだろう?と。


これは私が私に突きつける問題である。

「同じ(広義の)男性なのだから」「同じトランス男性なのだから」、「お前もこれくらい責任を感じろ」とは言えない。言えないだろう?



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