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男性とフェミニズムの距離感についての、生意気なメモ。

更新日:2022年9月7日

昨今の(?)男性学・男性性研究等について思うこと。


「男性差別」を訴えるマスキュリストに、久米泰介氏がいます。現在のところ「男性差別」をメインに論じた本を4冊は翻訳しています。

私はこれに一部賛同しています。といっても、99%の女性差別温存の視点を差し引いて、残り1%に金が残ってくれはしまいか、という程度の期待ですが。大量の砂に埋もれたその金というのは、男性の視点で、男性の問題を解決するために、日本ではまだ言語化が不十分だった観点を持ち込んだ、というところを評価したいからです。

男性がジェンダーを捉えるとき、女性の目を気にして、フェミニズムに反発するか、フェミニズムに促されて自分の言葉を失うか、という2方向にいきがちです。これは大いに問題ではないのでしょうか。

フェミニズムに反発するというのはすなわち、性差別を維持し続けますという意思表明であり、現状の反省を拒む愚行でしょうから、私はこの姿勢に賛同しません。

フェミニズムに対して順応することに対しても、これはこれで問題です。なぜなら、すでに女性的な境遇からフェミニストたちが訴えていることがあるにも関わらず、それを傍観していた立場の男性が繰り返す必要は、本来ないからです。

フェミニストは、「こんな性差別がありますよ、変えていきましょう」と主張します。

それを受けて、それまでフェミニズムを主体的に考えてこなかったような男性が、「こんな性差別があるらしいですよ、変えていきましょう」と伝聞調で、鮮度を低く言ったとしましょう。厳しい言い方をしますと、そこに価値があるのでしょうか?別にその伝聞そのものには価値はないのではないでしょうか。つまり、初めからフェミニストが言っていることを人格あるひとりの人間の発言として素直に受け止めていたら、それをわざわざ男性が繰り返す必要がないからです。


ただし、現状であまりにも酷い男女間の格差があるために、男性が男性に向けてフェミニズムを説く必要性が出てきています。こうした努力は決して無視できませんし、引き受けている男性がいることはとても尊いことだと感じます。最近の著作では、『マチズモを削り取れ』(武田砂鉄)や『私は男でフェミニストです』(チェ・スンボム)などが、そういった「男性が男性に」フェミニズムを伝達する役割を果たしていると思います。これはまごうことなき大事な役目です。ただ、とくに新しい観点を持ち込んでいるわけではないよね、という確認です。


男性学の研究者のなかには、「ジェンダー平等」を考える上で、僕は男性を中心に話題にしますが、もちろん女性の待遇を考慮することも大切です、という姿勢の人もいらっしゃることでしょう。この際にも、「性差別があるらしいんですよ」とフェミニズムの受け売りになるか、あるいは、「(女性の苦しさが語られているときにまるで覆いかぶせるかのように)男性苦しいのです」とイマイチな突っかかり方をしているように見受けられます。マンタラプション(manterruption=man男+interruption遮る)ってやつですね。ああ非常にやり方が悪い、このもどかしさ!しかも「ジェンダー平等」と言いながら、規範的な男女に当てはまらない人々の存在は浮上しないことが多々あります。


一部差別的な主張をかますフェミニズムを除いて、基本的に賛同するのは当たり前の話なのであって、いつまでそこでモタモタしているのか、という焦ったさ。早く男性は男性の言葉で、抱えている(かもしれない)課題を引っ張り出して着手すべきではないのか。


冒頭の、「男性差別」の話に戻りましょう。

辞書的な意味はともかくとして、社会学のなかでは「マジョリティがマイノリティを虐げている構図」を「差別」と名指しているかと思います。男性/女性の二分類に限って言えば、「女性は、男性中心社会から差別を受けている」といった指摘はできても、逆はいえない、ということになります。つまり男性全般が男性であるというだけで他の性別から被る不利益は生じず、「男性差別」などない、という帰結になるでしょう。


それなのになぜ、男性の被る不利益や生きづらさをときに「男性差別」だなんて呼ぶのでしょう?私はこの理由を、男性の言葉の貧しさによるものだと捉えています。

だから今、とやかく言う気はないのです。社会がたいてい女性的な境遇の者に不利益を与えるように出来ており、その反対に男性は(男性間の差こそあれ)利益と結びつくべし、という規範によって動いていってしまっている、という現状から目を離さなければそれでまずはいいのではなかろうか、と。「男性差別」と名指すしか、個別の課題を取り上げる術がない男性の、言葉の貧しさを今論う気はあまりありません。他の言い回しがあるならそれでもいいでしょう。ただ、「男性問題」や「男性の生きづらさ」といった用語では、個々の事例に当たることができないのが現状でしょう。


フェミニズムに当たり前に賛同した上で、男性は男性の課題と向き合った方がいい。話を前に進めてほしい。

たとえば「男性差別」の事例として、「裁判の際に、殺人という同じ罪を犯したにも関わらず、男性は刑期10年で、女性は7年で済む。なぜ同じ罪なのに、男性の方は罰が重いのか。それは裁判官や世間の“男はどうせ悪い者である”というジェンダーバイアスによるものではないか」といった内容があるとしましょう。正確な引用ではありませんが、「男性差別」の翻訳本の中にはそういった例が挙げられていたと記憶しています。


これで「だから男の方が差別されている、女は楽でいいなあ」という短絡的な思考に陥るべきではありません。逆に、ジェンダーバイアスがあることによって、女性の方に刑罰が不適正な働き方をしている事例も考えられるでしょう。であれば、これは「男性の方が辛い」「女性の方こそ辛い」という"どっちが辛い合戦"ではなくて、同じ問題を抱える者同士として、司法に物申せばいい話です。


なぜ男性たちが、フェミニズムを前にするとてんでやり方が下手くそなのか。全然よくわかりません。よくわからないのです。よくわからないのですが、まるで男女が対立軸に並んでいてどちらか一方からしかアプローチできないような思い込みをやめ、そうしながら男性が主体に動いていくことが、もっと必要なのではないですか?

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