『反トランス差別ZINE われらはすでに共にある』を入手しました。
おそらく文章書くのが得意な人が集まっているとはいえ、執筆内容や編集がバランス良かったです。
ほとんど順番通りに、前から読みました。それぞれへのコメント。
三木那由他「くだらない話がしたい」
わかる!せっかく書いたものも、「差別問題の本」「トランスの」「当事者の」などと一括りにされたら途端にシリアスな、まるで問題を引き起こす原因であるかのように、存在させられてしまう。トランスのパス度チェックで、コンビニのボタンや、CoCo壱が出てくるのはネットの当事者界隈ではよく見るけれど、私は気にしたことなかったので、そんな小ネタいつまでやってるんだろうーでも、それが「当事者あるある」ネタの良いところか?などと思っていた。いまではそれさえ、ほとんど消えてしまった。品行方正にさせられる辛さ。私自身は、ツイッターフの言う侮蔑的な発言を逆手にとって、逆にネタにして笑っていたりもするのだけど、そういうことも呟けないからな。
ただの沼「べつの言葉で」
3月14日。男性職員一同からのプレゼント。
お菓子をくれる職場なのだから、ノンバイナリーだと言ったら「配慮」はしてくれるのだろうきっと。この距離感、孤立感。世界と何重にも壁を隔てられる感覚がよく伝わってきます。優しさだけじゃ意味がない。
聞かれる声には限りがあって、きれいな声しか聞かれない。トランスの書いた文章が不当に毀損されることなく広く読まれるのは必要だと思うが、体裁の整っていない文章や、精神を病みながら、あるいは躁状態で過剰にマウント気味だったりする文章は、「トランスのリアル」からは弾かれるからな。すっごいリアルなんだけど。
青本柚紀「クィアな自認の時間性――あなたにそれが届くまで」
自分史っぽい。「Xジェンダー」と「ノンバイナリー」は似ているが、一方で「Xジェンダー」には“第三の性”扱いがある気がして、単にバイナリーを否定する「ノンバイナリー」の方がスッキリする人はいるだろう。
山中千瀬「言葉がほしい」
常々思うことに、なぜ説明させられなければならないのか。と。
シスが大多数の世でシスたちで作ってきた言葉で、「シスにはないトランスの感覚」を伝えるのはむつかしい。(p.19)
トランス側は、すでにあるシス言葉を駆使して、説明しようと試みてきた。「心の性」や「女の着ぐるみを着ている感覚」といった説明が、ごく少数の当事者には収まりがよくても、大多数にはそうではないように。実感とはズレていて、それなのにそれしかないから。
さとう渓「トランスジェンダーは難しくない」
すごく好きな文章。冒頭の三木さんとも呼応するが、くだらない話だってしたいし、難しさを難しがらずに一緒に背負ってくれる人がいたら、こんなに「難しい存在」扱いされてないだろう。
難しいと言われるのにはもう飽き飽きしている。(p.24)
水上文「シスジェンダーとは何か」
このZINEに含まれていて良いアクセントとなる文章であり、いやたしかに最初から、全体に響き渡るべき文章だったのだよ。トランスを問うとき、シスもまた問われているのだから。
ところで。シスの定義として「2)トランスフォビアによって定期的に苦しめられていない人のこと」があるとすると、私は生活実態としては「トランスの男性」に該当するけれど、かなりシス的なトランスだな、と改めて思った。トランスフォビアに直面する機会を、最小限に抑えてこれたからだ。世の中にはトランスフォビアがあるとある程度知っていて、自分に降りかかるかもしれないと想像してリスク管理する、という点でたしかに私は「トランス当事者」だけど、実際の被害はきわめて少ないのだ(今のところ)。
かがみ「「キラキラしたトランスジェンダリズム」ってなんですか?」
すっごいリアル。血に塗れ、涙で濡れ、死んだ方がましだと思いながらも、でも今を乗り越えれば少しは楽に、いやしかし埋没していようが危険はある。このZINEに欠かせない文章。トランス同士でも、相手がトランスだなんて見抜けませんよ。
福永玄弥「わたし(たち)は忘れない」
いつか会おうと約束した人に、二度と会えなくなる。トランスは死のそばにいることが多い。それはその人の意思ではないことも多い。
高島鈴「その声には応答しない」
ホロコースト否定論者の土俵に乗ってはいけない。
相手が議論に応じれば、あたかも「ホロコーストはあったかなかったか」という論題がまっとうなものであるかのように見せかけることができるし、相手が議論に応じなければ、それを根拠に糾弾したり、自分達は沈黙させられていると主張することができる。つまり「議論しよう」という呼びかけは、どちらに転んでもホロコースト否定論にとって有利に働くのである。(p.40)
近藤銀河「シスターズへ」
フェミニズム内でのトランス女性への差別は、黒人女性排除やレズビアン排除と非常によく似た構造。
ただ、最近私がわからないのは、「シスターズ」と呼びかけるとき、本当に男性としてやっていくことになったトランス男性のような存在はどこに行くのだろうという疑問だ。
堀田季何「メモ・ノワール」
性分化疾患(DSD)かつトランスジェンダーの人を、他に2人は知っている。でもたったの2人だけだし、詳細もまったくの同じではないので、トランス医療のなかで一体どう扱われてきたのかわからない。更年期症状の重い版は、想像するに耐えない。命がけ。文章全体に質量としての重みがあった。
榎本櫻湖「声について」
声への恐怖、緊張感などは、境遇はちがうけれど抱えていた。
山内尚「熊で鹿で兎でそして」
ジェンダーフルイドの実感、「自分の中身がたぷんと揺れる」と言われて初めて想像が追いついてきたかも。
呉樹直己「セックストイと自炊飯」
テストステロン投与への目的が面白いなと思った。
シス特権を喪失しない程度、つまり外見上女性としてぎりぎり通用する程度においての、女性的特徴の中和(p.59)
シスに埋没していたい気持ち、というべきか、トランスとして可視化されるのを恐れる気持ち、あるいは「あんな男になんかなりたくない」という男性との距離感を保っていたい気持ち、なのだろうか。
皆生きるために治療をするのであって、治療をすることで不幸になるかのようなデマはさっさと消えてほしいな。
清水晶子「背を向けて、彼方を見つめて、向き合って」
ラディカルさが光る。
私たちの身体を特定のかたちに留めつける支配的な眼差しとのかかわりを拒絶しても、眼差しのあり方を変革することにはならないのではないか?(p.63)
昨今のフェミニズムへの批判として読めるし、トランスが萎縮するだけではもったいないと言われているような気もする。
岩川ありさ「雑踏の中でも見つけられる」
トランスの人の中には、かつての自分を「双子のきょうだい」みたいにそばに置いていく人もいると聞くが、それを思い起こさせる。
これらエッセイの他に、映画ガイドとブックガイドも。
差別をするのが趣味な人も、差別反対が趣味な人もいる(ええ、皮肉です。)と見受けられるなかで、こうやってまとまった「反トランス差別」のZINEが読めて元気になりました。
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