『トランス男性による トランスジェンダー男性学』(大月書店/2021年12月20日発売)をお読みいただいた方、誠にありがとうございます。語りきれなかった部分の補足、批判を一足先に残しておきます。
ーーーー以下、ネタバレしかありませんーーーー
ーーー(本はご覧いただきましたでしょうか......)ーーー
●変化の一過程として
私はトランスジェンダーを変化する存在として捉えている。だからトランス男性は、FtM(Female to Male)と表記される通り、Fから(まっすぐではないながらも)Mへ向かっていく存在として把握することになった。
これは想定されているのであろう「トランス男性=性同一性が(終生?)男性である」「バイナリーな存在であるうちの、男性側」として見る観方には反するだろう。
ましてや、「女性として納得していました」と回想するようなトランス男性もいるなんて、予想外だった人もいるかもしれない。ただ、純粋に、それもトランスジェンダーのリアルだと思う。
逆に、
「私が男かどうかは知らんけど、男だということにするとなんかうまくいく。それでいい」という生き方は、非常に“シス男性”的ではなかろうか?クィアである、トランスである、とも言えるけれど、いやはや、“シス男性”みたいじゃないの?
●人種の表現
「性別」が「生物学的性別」などと予め生まれ持って確定した要素として扱われないのと同様に、「人種」に対しても社会的に構築されたカテゴリーとして捉える観方がある、と聞いている。
ただし拙著ではそのような人種にまつわる適切な表現を採用できていない。訳語には端的に「白人」「黒人」などという表現を使っている。疎くてごめんなさい。
●ゲイ
ゲイアイデンティティをじっくり育ててきた方にとっては、違和感のある記述もあったかと思う。トランス男性にとってはっきり男性同性愛の認識がない場合でも、それはゲイコミュニティへの参入を意味するのか?
私の言い分としては、ただ男性とセックスをする男性(MSM: Men who have Sex with Men)というだけではなく、男性同性愛と同じように見られることを抵抗なく受け入れ、自身のアイデンティティ形成に役立てているのでは?という点から、ゲイコミュニティやゲイセックスの範疇として捉えることに意味がある、と考えた。そこから実際にゲイアイデンティティを採用するトランス男性もいるはずだ。どうしても、葛藤を重ねてきた“ゲイ”当事者には納得しがたい説明になってしまうが。
●男性ホルモン
トランス男性視点で語るために、男性ホルモンが男性性と紐づいている様子を述べることになった。一方で、そうではないこともある。
私と同じくらいの男性ホルモン値である、女性ホルモン未投与のトランス女性が、普通に女性として日常生活を送っているという実態だってある。彼女たちにとって男性ホルモンが男性性を形作っているかというと、私には到底そうは思えない。
●メンズリブ
充分に記述できなかった。残念。
●男性差別
「男性差別」。聞き慣れない用語だ。私も妙だな、と感じた。
これには説明が必要だった。申し訳ない。引用はともかくとして、私がそのまま「男性差別」という表記を引き受けるのは軽率だった。辞書に則ると、差別とは「(その属性であるというだけで)他よりも不当に低く取り扱うこと」だ。私はこの文脈で「男性差別」といったつもりだ。男性の権利を訴える人々(ミソジニストやアンチフェミな男性を含む)の主張の中には、確かに女性差別的な認識をすっぽり抜けば、残りを「男性差別」として、男性のより良い生き方のために主張できるだろうと思える内容があったので、そこには賛同する。
けれども実際には、無視できない社会構造があり、そのレイヤーにおいてはマイノリティに該当する「女性差別」は記述できるが、そっくりそのまま対抗するかのように女性に対してのマジョリティである「男性差別」を述べることはできない。現実がそうできていないからだ。「どっちもどっちだろ」と男性優位な構造を維持するために、「男性だって差別されてます」というのでは、もちろん無い。「女性差別」で用いられている“差別”と、「男性差別」で用いられている“差別”とでは、その語の経緯が異なる。女性差別は残念なことに空気中の酸素くらい鮮やかにすっかり蔓延しきっているわけだが、男性に対するそれはそうじゃない。
このズレはとっくに自明のこととして認識していたはずなのに、この説明を怠り、ただ辞書的な意味で“差別”という用語を引き受けたのは一冊の本の上では説明不足だっただろう。男性の被る「不当な取り扱い」など別の言葉を代用すべきだったのか。
おそらく、文中の意図は伝わっていないはずだ。とても男性に手厳しいことを言っているのだと理解してくれる読者がいたなら、私はそのことに驚くくらいだ。
男性の権利を訴える人々は未だ私にとって要警戒ゾーンにいるのだが、あわよくば、男性の不当な境遇を救うために必要な主張だけ盗ませてほしい。それはもちろん、「敵は女性」ではない、という大原則を脅かさない限りにおいて。むしろ私は、同じ「男性差別」という用語を引き受けながら、「ええもちろん、敵は女性ではないですよね?」と話をズラしたかった。“男性の権利派”を内側から骨抜きにしようと。しかし説明不足ゆえ、ただの空気が読めないアホになってしまった。お道化どころか、ピエロから戻って来れなくなったら大変ですもの。
(読者を想定していない、好きなように書いているところが良い、というご意見もいただきましたが......これは初回出版特典なのだろうね)
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ところで、そもそもなぜ男性の権利を主張する、強烈にミソジニストな可能性もある人々の主張に注目するに至ったか。
その話をするためには、そうではない男性を見て思ったことをまず書こう。
男性がフェミニズムに接触したとき、まるで昨日今日知ったかのように(本当にそうなのかもしれない)ジェンダーを話題にするのが堪え難いときがあったからだ。そうした話はこれまでフェミニスト女性がしてきたにも関わらず、男性の言葉でフェミニズムを記述しただけ(私にはまずそう映った)で、私は居心地の悪さを覚えた(今はこの感覚が改善されてきた気はする)。親フェミであることは「差別をしない」といういわば当たり前の話なので、そこに留まっている印象が先に来てしまうと、そのデフォルトから抜け出て今後をどうしようかと悩む私は「男性」としての行き場を失う。シス男性的なルートを歩む者と、そうではなかった私のすれ違い。
もし男性を主体に考えたり運動を起こしたりするのであれば、女性の対比として男性を想定し「女性よりマシなのだからいいじゃないか」というのではなく、ただただ単純に、男性の権利や生き方を見直すのが良かろうと。そう思ったわけだ。それは基本的にフェミニズムの範疇ではなく、男性が中心になってしかできないことだろう。男性は男性で問題を抱えている。(狭義での)差別や偏見を被ることもある。
そうして少しずつ、「女性よりマシ」という在り方ではない男性の問題に関心を抱いたのだった。
しかしながら、いつでも袋小路に迷い込みそうになる。個人的な立場として。
というのも、私は「男性って幸せだな、恵まれてるな」と感じすぎている!
(男性学、を男性としてあるがままの悦びを探求する、というようなハッピーな方向で語ることもできるだろう。これも、男性ジェンダーを負う者としてともすれば有害性や加害性で語られることの多いシス男性には無理な芸かもしれないが。なんてこった、トランスの出番か。)
おまけに、そうして生活しながらも戸籍上や身体上や統計上で私は「男性」に含まれるのか否か不明なので、その分当事者意識は希薄にならざるを得ない。ここにも有無をいわせずシス男性とは異なる思考回路が発生してしまった。
個別に見ていけば、例えば「共同親権」を求める男性(男性に非がないケース)の言い分はわかるが、私はそれ以前に「DV夫から逃げるために妻側に単独親権がないと困る」といったエピソードや、子どもが離婚後の双方の親による決定に従うことの難しさなども聞き及んでいるので、判断は難しい。
(今後同性婚が認められたら親権の問題はまた別の展開がありそうなのでそれはそれで気になる。現在の法律やそれに伴う風潮は法律上も実生活上も「男女」の組み合わせしか想定されていない。なおかつ、その男女の役割も決められているかのようだ。)
それから、報道における男女差。男性の場合は「男」と表記されるが、女性の場合は「女性」と丁寧に表記されている、ということが男性差別の一例として挙げられているのも見かけた。実際にそれで「“男”は雑に扱ってもいい」という認識に繋がるのであれば問題だ。とはいえ私からしてみたら、「女医」と女性だけ非規範的な表記をされることや、夫婦同姓を望んでないにもかかわらず夫側に姓を合わせることになった女性たちの名前表記など、女性側が軽んじられてきた場面を思い出してしまい、途端に男性側の損害が取るに足らないものに見えてしまって仕方ないのも事実であった。
また映画の描写をみれば、圧倒的に「女性差別」「女性蔑視」があったのを観てきた。ドキュメンタリー『ハリウッドを斬る!〜映画あるある大集合〜』では、ハリウッドがいかに男性優位であり女性を軽んじてきたかがコミカルに解説されている。
だから、それらを通過した後で「こんなに男性差別があるじゃないかっ」と言われても、「たったそれだけで済むじゃないか......」と言ってしまいたくなる瞬間がある。脚注でそういったことをチクチク書いてみて、けれど今回は消した。
●フェミニズム
「自分みたいなシスヘテロ男性は、フェミニストにはなれないし、なるべきでもないと思っている」と語っていた杉田俊介さんと西井開さんの講演会(2021/12/5)は印象的だった。
また私が男性化する以前に、クィア・スタディーズの森山至貴さんも、「男性である自分がフェミニストと名乗ろうとは思わない」と発言していた。私はよく覚えている。性別移行前からそれが「課題」だとなんとなく感じ取っていたからだろう。
私も彼らと同じ系譜にあるらしい。成り行きは違うにせよ。生活がすっかり男性のものに変わった今、私はフェミニストから“降りる”必要性を感じた。
思い返せば「フェミサイド」と聞いた時、以前のような当事者意識はすっと消えてしまったのだと気づく。私の中で“単なる”人権問題に片付けられる領域へ話は流れてしまったようなのだ。ただ、それだけ。ひとりの人間への暴力としては十分警戒し、対処すべき問題だが。ただ、それだけ。凍てつく恐怖や憤り、その「女性さながらの勢い」がフェミニズムに対する意識から亡霊のように抜けていった。トランス男性特有の距離感の難しさに限らず、そうか、もう「男性」なのだと。私は「女性」ではなくて、“単なる”“ひとりの人間”としてもうやっていけるようなのです。フェミニストではいられず、フェミニストのアライ程度でしかいられない。ということはそれはもう、フェミニストではないんじゃないか。私は男性で在ってしまったこの現状を、受け入れようじゃないか?
●反省モード、世代の差
「男性は反省しなきゃね」という大前提。
(実際は「反省」というリアクションで片付けず、「内省」、はたまたその先のアクションに踏み込んでいる男性もいる。個人的には『さよなら、男社会』の書き方には心を捕まえられた。)
でもこの反省モードは、世代によって大きく異なるのだろう。反省や鎮静が当たり前の若い世代(参考文献の著者陣の大多数よりずっと若い10代20代の人々)にとっては、栄華を極めたウェイな時代など存在せず、鎮圧された環境で、反省モードはデフォルトだ。今さら、更なる反省を促されたら本当に何にもなくなってしまう。ーーーそういうことを思う読者もいるだろう?
私が「トランスジェンダー」であることと、「若い(実年齢も男性としての規範的経験も)」ことによって、既に記述済みの“男性学”に思いを重ねるのは至難の業となった。いやハッキリ言おう、“父親の”人生に思いを馳せる役には立った。
●トランス男性当事者の本
2000年代前半には自伝風の性同一性障害・FTM物語が一気に出たとも聞く。が、現在どれくらいのものがアクセス可能なのだろう?わかる範囲で書けることしか書けなかった。
最近では2019年出版・浅沼智也さんの『虹色ジャーニー〜女と男と、時々ハーフ』もトランス男性物語か。本の中で紹介すべきだった......。
そして「トランス男性」と名指すのはズレているであろう人々も含めて紹介させてもらっている。そこはご承知おきいただきたい。田中玲さんや吉野靫さんは、例外だ。
●英訳
Sorry, i’m not good at translating English into Japanese.
●今(2021/12/06)
映画『花束みたいな恋をした』を思い出す。
物語の終盤。カップルは別れることを決めながら、次に進むまで同棲した家に一緒に住み続ける。別れることは決まっているのに。
だからこそ、あんなことがあったねと客観的に振り返って時々笑ったり怒ったり感情が自由になる。
私と原稿の関係もそうなった。出版すると決まって、発売日が決まって、何度かの訂正も片付いてしまって、それからまだ発売日までは時間があった。私は余所者になっていく原稿を読み返していた。私の内部から出たものだけれども、どんどん他者になっていく。まるで一人の「子ども」みたいだ。奇妙な共犯関係の中で、けれどやはり反省点がボロボロ出てきて、こんな文章を書いてしまった。
了
感想文というには稚拙かもしれないが、読後ようやく落ち着いてきたので。
不幸(だと思う事)って忘れたころに来るもので、自分も夜道で声をかけられて一発やらせてくれたら帰してあげるっていう怖い思いをしたことがあります。よりによってなんで私なのって、お前のせいだって言われて、本気で怖くて抵抗なんて考えられなくて、頭の中が真っ白になっちゃって、これからの人生が走馬灯のように想起されて、ただただ穏便に済まないかなぁって思ってた事がありました。「生きて帰れてよかった」とかおめでたい事考えてんじゃねぇよ、って自分に対しても本気でそう思います。で、この出来事が起きる前から私は「男子トイレにも女子トイレにも“怖いから”入れなくなった人」だったのだけれど(ボコボコにされるかもしれないし、閉じ込められるかもしれないし、上からバケツの水が降ってくるかもしれないし、レイプされそうになるかもしれないし、生きて出られないかもしれないと冗談じゃなく思っている)、使えるトイレが無いって事はそこで生きて行けないって事なんですよ。時代によってトイレの在り方が変わってきたのは、生きて行くためにその時々で折り合いをつける方法をそれぞれが探してきたからだと思う。
性別違和ってさ、「身体への違和感」と「目の前にいる人への違和感」と「社会への違和感」とは分けて考えるべきだと思うようになりました。やっぱり私も直感的に人を判断するわけです。そしてそれを立証する様に証拠集めをしてしまうのです。その過程で「あれ、やっぱり男の人/女の人かな」っていう場合もあって(ノリについて行けない時なんかには自分のことを半端者だなぁと実感させられる事もある。自分でも個性としてではなく同性だとか異性だとかに感じられるのかは何故なのかわからない)、特に相手がトランスジェンダーやXジェンダーの人なんかの場合はその比率が相対的に高くなるわけですけれども。異性装に限らない広義の意味での女装とか男装とか(振る舞い、役割、雰囲気作り)はしたくてしているだけじゃなくて、相手の為にしている事もある訳で。逆に相手が私に「女性的なもの」を求めているのか「中性的なもの」を求めているのか「男性的なもの」を求めているのか、それが「同性として」なのか「異性として」なのか、やっぱり瞬時に判断して振る舞おうとする部分もなかなか無くせられてないのですよ。やっぱりドレスコードとか髪を伸ばしたり切ったりするのも半分は自分の為で半分は相手の為なんですよね、少なくとも私の中ではそうです。そうしてある程度までは「お兄さんと呼ばれればお兄さんとして、お姉さんと呼ばれればお姉さんとして対応してた方が、トランスジェンダーとして対応するよりはるかに楽なことが多い」のです。ああ、付け加えるとLGBTの集まりではLGBTらしくないことで差別されたりもするんですけれどね。
体に対しての違和としては、「身体への純粋な違和感」と「与えられたものだから大事にしなきゃいけないという教え」と「これは借り物だから本当の持ち主に返すまで大切にしなきゃいけないという思い込み(診断受けてなかったからもはや分からないけれど、今でも内在性解離っぽいところは残っているんじゃないかと感じる)」と「なんでこんな扱いを(他者や自身の体から)されなければならないのかという嘆き」と「私も何らかの方法で折り合いを付けるから協力してほしいという想い」と「私自身が私自身にしてきた仕打ち」と、色々言葉になり切れてない他の事柄があるので一言で「身体への違和感」とか表現を求められても答えきれない。“ありのまま”でも“ありよう”でも他人には自分を受け入れてもらいたい反面、自分が自分の身体をどう受け入れるのかはまた別問題で。耐えられる痛みだから問題ないって訳じゃない、耐えられてないし、取り繕っているだけで問題がないわけじゃない。
その瞬間瞬間に相手から期待される社会的な役割については、冷遇的な差別であれ優遇的な差別であれ、男性学の範疇にも女性学の範疇にもそれぞれの立場から同時的に考察できる分野があるのではないかと私には思えました。それは主体性のないルッキズムによって、ルッキズムがルッキズムに破壊される一種の自傷行為であり他害行為となることがあると感じられるのと同じ様相です(例えば会社の人事がルッキズムに振り回されていたら、求職者も採用担当者も会社も社員も職員も取引先もお客さんも皆よかれあしかれそれを被ることになるということ。一方で身だしなみがおもてなしの一つの表現方法であるのも事実)。このように私は私自身が差別主義者であることを自覚するからこそ特に相手の周りの人々をも巻き込むような過度な差別だと思えるものには嫌悪を感じるのですが、一方で「あんたは女の子の顔と胸とお腹は蹴ったらあかん」って育てられてきたのは私自身を守るためでもあったんだねと、つくづくそう思うようにもなりました。だからと言って本来言及するまでもなく「男の子相手の喧嘩にはルールがなかった」という事でもないのです。
以上ここまで身体的性別について影薄く話を進めてきましたので、こんなのは女性学でも男性学でもないよって一部の人には言われそうですが本当にそうでしょうか。身体的性別による差別はもとよりジェンダーによる差別も無い方が良いと言っているわけではないのです。少なくとも差別を受ける当事者がいる事で周りにいる人々が困っているならば、それは当事者の問題なだけでなく、差別を許している側にも問題ですよねって言っているのです。歴史とは面白いもので、なぜ女性用のトイレが作られるようになったのか、なぜ水兵服が女学生用の制服になったのか、なぜレース生地や刺繍に女物のイメージがついたのかだったり、わざわざメンズスカートなんて呼び方をする文化があったり、総髪にしていると髪切ってあげようかと言われたり、もともと世の中が規範だらけで合理的な規範もあれば合理的になり切れてない規範もあれば、合理的でない規範も多いですよね。時々自分の感覚ですら作られたものなんじゃないかと疑う事があります、その度に痛い目に合ってきているのですけれど。「コーヒーやお肉が好きなんて男らしくない、紅茶やお魚が好きなんて女らしくない」などと聞こえてきたら、耳をふさいで済むのならば私は苦笑を浮かべながらそっと身の回りの人の耳をふさぐかもしれない、逆も然り。本当はもう少し男らしくまたは女らしくいられたら楽なのですけどね~。さとみ