レイウィン・コンネル『マスキュリニティーズ』
訳:伊藤公雄ほか
2022年 新曜社
第3章「男性性の社会的組織」 p.87-p.112
第3章では、やっと、「定義」します。「ヘゲモニックな男性性」など、男性性の分類が出てくるのもこの章です。
まずもって男性性の概念は、近年の産物であって、せいぜいニ、三百年前からのもの。そのため男性性を語るときは必然的に、その文化にある特定の方法で「ジェンダー化して語っている」のだと意識すべきです(p.89)。
第1節「男性性の定義」でコンネルは、男らしいとされる人間のタイプを特徴づけるにはさまざまな戦略があるといい、以下の4つの定義を挙げます。本質主義的定義、実証主義的社会科学、規範的定義、記号論的アプローチです。ただし、どれもうまくいきません!
【男性性を定義するときの戦略1:本質主義的定義】
男性の核となる特徴を取り上げ、それに与して男性の生活を説明するかたちをとります。
これに対してはコンネルも失笑というか、批判するまでもなく、賛同していません。本質主義的定義の弱点は、さまざまな本質主義者たちの間でさえ同意を得られるものが何もなく、相互に同意することもないのだから明らかだろう、ということで即却下。
【男性性を定義するときの戦略2:実証主義的社会科学】
事実の発見を強調する実証主義的社会科学は、男性性の単純な定義、すなわち男性とは現実にどのようなものであるかを明らかにしようとします。心理学による男らしさ/女らしさの尺度を測ったり、統計的な差異を見出したりすることによって。
しかし、それは困難です。
第一に、一見中立的な描写をしたところで、それ自体がジェンダーに関する過程によって下支えされているのですから。
第二に、男と女の行動をリスト化するには、あらかじめ「男性」と「女性」のカテゴリーに分けておかなければならないからです。行き詰まっています。
第三に、男性とは経験的に何であるかという定義をするには、「男らしい」女性や「女らしい」男性に対する用語法を排除しているからです。
「もし私たちが、集団としての男性と女性の間の差異のみに言及するなら、「男らしい」「女らしい」などという言葉は全く必要ないだろう。私たちは、単に「男の」「女の」とか「男性」「女性」といえばよい。「男らしい」「女らしい」という言葉は、カテゴリーの差異を超えて、ジェンダーに関して、男性の多様性と女性の多様性を指し示しているのである。」(p.90-91)
【男性性を定義するときの戦略3:規範的定義】
差異を認識したうえで、規範を提案する方法です。つまり「男性性とは、男性がそうなるべきものである」とするのです。
しかし、こんな「男性性のスタンダード」を作ってみたところで、誰もそんなチェックリストにレ点を入れ続けることなどできないでしょう。クリアしない男性は、「男らしくない」と言われるなんて、バカげています。個人的な水準での男性性は捨て去られることになってしまいます。
【男性性を定義するときの戦略4:記号論的アプローチ】
記号論的アプローチでは、男性性と女性性の位置を対照的に配置する一つの象徴的差異のシステムを通じて、男性性を定義します。「男性性は、女らしくないもの」というわけです。この戦略が文化的分析のなかでは有効だったとしても、広範囲の事象をつかむことはできず、他の関係性について語る方法が必須です。
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4つの戦略では男性性を定義できないとわかったうえで、コンネルはこう続けます。
「「男性性」は、(略)ジェンダー関係における場(place) であると同時に、男性と女性がそうした場に関わることを通じた実践(practice) でもあり、さらにこれらの実践の身体体験やパーソナリティおよび文化の中での諸結果(effects) でもあるのだ」(p.92-93)
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第2節は、「社会的実践の構造としてのジェンダー」。
今後も出てくる、言葉の説明から。
再生産領域:
毎日の生活を組織する、身体的構造と人間の再生産のプロセスとによって規定されている領域のこと。このなかには、性的刺激や性交、出産、乳幼児の世話、身体上の性別の差異および類似性を含んでいる。※コンネルはこれを、固定された「生物学的基盤」ではなく、歴史的過程を扱っているという意味を込めて「再生産領域」と呼ぶ。(p.93)
コンネルは、本書で終始「変化」を前提に語っています。なにかしら固定されたもの、生まれながらずっとそうであるものがあるように見えても、それ自体がジェンダーの渦に巻き込まれており、変化せざるをえないのです。
「多くの人は、諸制度が、隠喩的どころか実質的にジェンダー化されているということを受け入れることができない。しかしながら、これはキーポイントなのである。 例えば、国家は男性的制度である。」(p.95)
そして、「ジェンダーがほかの社会構造に巻き込まれている」こと、すなわちインターセクショナリティの視点を忘れないように繰り返し主張します。(インターセクショナリティという言葉は登場していませんが。)
「ジェンダーを理解するためには、ジェンダーの向こう側へも絶えず目を向けなければならない。同じことが逆にもいえる。ジェンダーの方を常に向いていることをせずに、階級、人種あるいは地球規模の不平等を理解することなどできないからだ。」(p.99)
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第3節では、日本語圏にもずいぶん持ち込まれた表現が登場します。
「男性性の諸関係」、ヘゲモニー・服従・共謀・周辺化についてです。『マスキュリニティーズ』本体の邦訳が遅かったため、使用者によって訳はバラバラですね.......。
「男性性は複数ある」と示す初歩段階として分類したとみればいいでしょうし、コンネルも過度の単純化を危惧しているはずです。それを踏まえたうえで、4つ見ていきます。
●ヘゲモニー(Hegemony)
「ヘゲモニー」という概念は、アントニオ・グラムシの分析からきています。訳者の伊藤公雄さんも、グラムシ研究していますね。
「ヘゲモニックな男性性」とは、「所与のジェンダー関係のパターンにおいて、支配的な位置、常に競合的な位置を占める男性性」(p.100)です。文化的には、上位におかれています。といっても文化は変わりますし、特定の個人によってもたらされるのではなく集合的な産物ですから、ヘゲモニックな男性性の内実も変わります。
たとえば平安時代は『源氏物語』のようなイメージで、高貴な男性が奥ゆかしく泣いているイメージが浮かぶかもしれません(「男なら泣くな」という規範は時代や文化で異なります)。戦国時代は、闘う男性がヘゲモニックな男性性を体現していたことでしょう。高度経済成長期ならば、サラリーマンがヘゲモニックな男性性に合致していたといえます。優位にみえる「ヘゲモニックな男性性」といえども、固定的な性格類型ではありません。
●従属(Subordination)
いくじなし、弱虫、ださいやつ、だめなやつ、めめしいやつ、臆病なやつ(・・・)、カモ野郎、眼鏡野郎、変わり者、変態、まぬけ(などなどp.103)。
そういった言葉で形容される男性性が、従属的男性性に位置づけられます。女性性と同一視されることが多いです。
異性愛男性が優位であるとき、ズバリ、同性愛男性は従属させられています。政治的、文化的排除、文化的虐待、法的暴力、街頭での暴力、経済的差別、個人的排斥まで、ありとあらゆるところで従属させられているからです。
第6章「とてもストレートなゲイ」をみれば、ゲイ男性がちっとも「めめしい」わけではなく、異性愛男性と変わらずに「男らしい」ことがわかりますが、「ヘゲモニックな男性性」側からみると、同性愛男性は「従属的な男性性」の位置にいます。
ちなみに、私が書いた『トランス男性による トランスジェンダー男性学』第5章において、「ゲイはめめしい」といった偏見はシス男性目線であって、トランス男性からしたら(憧れですらあるような)「男同士」の関わりをもつゲイの存在を、「女らしさ」よりむしろ「男らしさ」で捉えているのでは、という話をしています。
●共謀(Complicity)
「もし男性の多くが、ヘゲモニックな投企とつながりをもちつつも、ヘゲモニックな男性性は体現していないのだとすれば」(p.103)、そのような固有の状態を何と呼べばよいでしょうか。男性内のなかでは「高い」位置にいなくとも、家父長制の分け前を得ている男性は、量的には多くいるはずです。
共謀的男性性とは、「家父長制の最前線に立つという緊張や危険を冒すことなく、家父長制的恩恵を確保するような仕方で形成された男性性」(p.103)です。権威の誇示よりもむしろ女性との妥協(婚姻、父親性、地域生活など)も含み得ます。
この部分の説明は、家父長制がある文化圏を前提とした説明になっているため、そうではない文化圏ではまた共謀的男性性の説明も変わってくるのかもしれませんが。
●周辺化(Marginalization)
私は『トランスジェンダー男性学』のなかで、以下のように説明しました。
「「周縁的男性性」についてはほとんど語られてきませんでした。周縁的男性性とは、人種やエスニシティなどで終焉化された男性性を指しています。(略)シスジェンダー優位社会におけるトランス男性も構造的には同様でしょう。」(周司、p.54)
邦訳されたコンネルの『マスキュリニティーズ』を読むと、ちょっと違った説明が出てきそうです。といっても積極的に説明されないのが「周辺化された男性性」(=周縁的男性性)なので、ハッキリ定義するのは困難です。こんなに回りくどいコンネルの説明は初めてみた!という気分です。
少なくとも、黒人の男性性(周辺化された男性性のひとつ)の例から読み取れるのは、「語られていない」というよりは、「ヘゲモニックな男性性など他の男性性との兼ね合いで、都合よく語られてきた(抹消されたり消費されたり......)」男性性、という方が近いのではないか、ということです。
「トランスジェンダー男性学」第2段を書く日がきたら、ここの説明は改善の余地がありそうです。
・・・以上、4つの男性性を紹介しました。
変化はジェンダーの外部(技術や階級の変動など)からだけでなく、内部からも生じています。男性の多様性を掘り下げる重要性を感じました。
コンネルが繰りかえし伝えるように、男性性のポリティクスは個人的生活やアイデンティティの問題に限定していてはダメで、社会的正義の問題としても視野をひろげる必要があります。このあたり、昨今の男性学(的な流れ)では「個人の気の持ちよう」に矮小化されているので、制度や法や階級のことも考えなくてはなりませんね。
おまけ。
コンネルは精神分析を解説する流れで何度か「ジェンダー・アイデンティティ」という用語を登場させます。1995年"Masculinities" が出た頃は、現代ほど「トランスジェンダー」の存在が周知していたとは言いがたいですし、「トランスセクシュアル」に「(中核的)ジェンダー・アイデンティティ」があるという話を引用(p.18)したとしても、基本的にはシスジェンダーの男女に対して「ジェンダー・アイデンティティ」を適応しているのですよね。この点、「ジェンダー・アイデンティティってトランスに特有で、シスには関係ないでしょ?」という読者には気づいてほしいです。
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