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『マスキュリニティーズ』第5章「完全なる新世界」メモ

更新日:2022年9月7日

レイウィン・コンネル『マスキュリニティーズ』

訳:伊藤公雄ほか

2022年 新曜社

第5章「完全なる新世界」p.159-p.190


第5章は、「フェミニストによる批判などによって自分の男性性を改善しようと試みた男性グループ」(p.159)への調査です。フェミニズムに肯定的な「男性学的な」人たちといいますか、他の男性から軽蔑されることがある「ソフトな」男性たちを指すようです。


●環境保護運動からエコ・フェミニズムへ


オーストラリアの事情を知らないのですが、環境保護運動にかかわる男性が、エコ・フェミニズムに賛同することで、フェミニズムに関わっていくことがあるそうです。日本ではエコ・フェミニズムの言葉自体知られていない気がしますし、男性で「環境保護運動に関心があるから」という理由で、のちにフェミニズムにも賛同していく人は、聞いたことがありません。


コンネルは第1章からフロイトが好きなんだなーというのが伝わってきていました。第4章で調査した「労働者階級の若者たち」には、エディプスコンプレックスがあまり見られなかったためコンネルは期待はずれだったようなのですが、第5章での「ソフトな男性たち」にはばっちり「前エディプス期における母親との同一化」がみられたそうです。よかったね(?)。

というのも、調査した「ソフトな男性たち」の家庭は6人中5人が、母親は専業主婦でした。十分な収入があったこともわかります。家庭環境が、男性性の形成に影響を及ぼします。彼らの人格形成のなかで、女性の強さと身近なところで出会ってきたために(例:世界大戦後に何もできなくなった父を母が支える姿、母親が家族の中で力を持っているという認識)、フェミニスト女性がもつ強さのイメージは、彼らの経験と共鳴することができたようです、

こうした「ソフトな」男性たちは、生まれつきフェミニストではなかったにしろ、ヘゲモニックな男性性から距離をとっていくケースがあります。とはいえ、オルタナティブな男性性へ向かっているわけではありません。せいぜい否定の一形態であり、あくまでヘゲモニックな男性性から距離をとることでしかないのです。


第3節からは、「環境保護運動」について述べられます。

グリーンポリティクスのような、政治的な直接行動主義は、いくつかのテーマを示していました。

 ①平等の実践とイデオロギー:つまりヒエラルキーと権威主義への批判。

 ②集団性と連帯の強調:グループで働くためのよい方法を考えること。

 ③個人の価値の実践とイデオロギー:より賢明な人間へ成長するきっかけとして。

 ④有機的統一体のイデオロギー:疎外的&機会的な西洋文明への批判。自然との結びつき。


これらグリーンポリティクスの特徴は、たとえフェミニズムがなかったとしても、ヘゲモニックな男性性に対して観念のレベルでは挑戦的なものでした。しかし、そこにはジェンダーの問題が組み込まれておらず、明確な男性性のポリティクスが生じることもないので、やはり「環境保護運動」に「フェミニズム」の影響が加わることで、男性性への変化が見られるのですね。

●フェミニズム、そしてヘゲモニックな男性性との分離


第4節。もちろん、現代でもよくあるように、フェミニズムとの出会いは男性にとってストレスの多いものにならざるを得ませんでした。「性差別主義」を学んだことで、「罪の意識」を感じるわけです。

そんなロバーツの引用(p.172-173)では、女性のパートナーと役割を交換した実践が挙げられています。女性が長時間外で働き、男性のロバーツが家事をすべてやったそうです。


コンネルのツッコミが素晴らしいのは、フェミニズムを実践から学んだという男性が、その一方で「経済的不平等や制度化された家父長制あるいは政治運動としてのフェミニズムには注意を払っていない(p.173)」とばっちり補足してくれるところ。ありがとう。


では、ヘゲモニックな男性性から分離するには、どうすればいいのでしょうか。


そのモメントは、基本的には受動性を選択することを含意しています。 たとえば、キャリアを放棄することです。それによって伝統的な家族(それほど歴史があるわけでもないのですがね)を養っていくことは困難になるので、否応がなく世帯全体で収入を分担することになります。すると、日常的な男性の特権もなくなりますし、意識的に話し合いをしたり、そこでの結論を支配しないような努力が必要となります。女性への性差別なんてしている余裕がありませんね。こうして生活全体が変わっていくのです。ただし驚くべきことに、放棄というのは、「非常に男らしい行為」とも言い換えられます。個人の意志力の行為の結果なしうることであり、前提として男性的な自我があるからです。

同時に、放棄は、受動性への根深い願望の表出でもあり得ます。ヘゲモニックな男性性では抑圧しているものを、表面化してもよくなるのですから。


●ホモフォビア抜きの新しい男性間モデルとは


課題としてとても共感するのは、

男性自身がフェミニスト的になっていき、もはや女性たちと関係する方が簡単になっているような男性にとって、「男性との関係における新しいモデル」ってどうするの?という疑問です。


調査からはきびしい現実も垣間見えます。

コンネルがいうには、

「彼らは「性差別主義」に真っ向から挑戦するフェミニズムを学んでいたが、男性同士の同性愛について明確な方針はもっていなかった。彼らの変化のための実践は、自らの身体の異性愛的な感受性を問題にすることではなかった。そのため彼らは、男性同士の関係の新しいモデルに含まれる困難に焦点を当てることができなかったのだ。」(p.178)


......きついねえ。私はずっと思っているのですけれど、クィアな男性の姿がより一般的に、ポジティブに、なんでもないことのように存在するのは、シスヘテロの男性たちにとっても良い効果があるだろう、ということです。

たとえば、映画や漫画などにふつうに同性愛や無性愛の男性キャラクターが映されるのもいいですし、ゲイ男性が「おっさん」を愛とユーモアをもって語る『ニュー・ダッド』(木津毅)とか、トランス男性が自身のコンプレックスを魅せた『COMPLEX』とか、とても良い取り組みだと思うのです。これらは別に一部のLGBTQエンパワメントのために為されているわけではありませんし、シスヘテロ男性の凝り固まった価値観をほぐしていくために絶対に必要なことでもあります。はやくホモフォビアから解放されて、自身の身体を大切にできるようになってください。


脱線して、すこし私の話をします。

「女」から「男」の境遇になったトランス男性の私からすれば、「男性の身体」が大切にされず、妙な不快感や距離感でもって出迎えられるのは、個人的にとても残念で迷惑なことなのです。せっかく命がけでトランジションしたにもかかわらず、(私にとって)たいした価値もなかった「女性の」身体と見られたときはムダにチヤホヤされて、ようやく男性化して愛せるようになったこの「男性の」身体は、世間的には価値を貶められるという、異常事態よ。「男性の身体」とみられたものは、うっすら嫌悪されるというミサンドリーは、はやくなくなってくれないと困ります。それは男性たち自身が、女性への異性愛規範を強化し、ホモフォビアを手放さないことによる弊害です。

『マスキュリニティーズ』に話を戻します。

フェミニズムがどうのこうのやっている前に、自分の男性性と向き合うことが必要なのです。いい取り組みかもしれませんが、女性との性役割をちょっと変えてみたくらいでは、変革の実践は遠くまで進めません。

「自己を変革しようという投企は、家父長制ジェンダー秩序に関して、革命というよりは抑制をもたらすことになる。」(p.186)

フェミニスト女性が、フェミニスト男性というものに対して懐疑的な理由もここにあります。「その改革が単なるショーウインドウでしかないように感じられるため」(p.186)です。


なかには、親フェミニストの男性たちがほかの男性たちを裁いているようにみえて、男性たちが罪の意識によって誘発された「イフェミニズム(女性化主義)」的な反応に対して難色を示す、ロバーツのような男性もいました。ええ、同様の反応はインターネット上でよく見られる気がします。


●男性としてのポリティクス


この第5章で述べられた「環境保護運動」に関わる「ソフトな」男性たちは、ジェンダーの差異をなくしていく(脱ジェンダー化)の方向へ向かっていました。

けれどもそれだけでは、個人の意思の問題であり小規模な実践に過ぎません。そのほかの男性を中心とした家父長制は維持されたままで、女性フェミニストたちの頭を悩ます政治的な不平等などは解消されません。


だからこそ、コンネルは結論で述べます。 さらに前に進むためには、脱ジェンダー化されていない(男性としての)ポリティクスが必要なようである、と。詳しく述べられる第10章がたのしみです。

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