レイウィン・コンネル『マスキュリニティーズ』
訳:伊藤公雄ほか
2022年 新曜社
第7章「理性の男たち」p.227-p.251
「女性は感情的で、男性は理性的」ーーー。
その西洋哲学に根をおろしている前提は、家父長制イデオロギーともつながっています。そしてまた、男性を理性と紐づけることで、企業での労働の必要性に適合するよう、男性たちを仕向けてもいます。企業経済と、その飼い慣らされた文化に合致するような男性性へ。
さて、第7章で取り扱うのは、少々わかりにくい、けれど多くの人に馴染みある、「大多数」の男性(あ〜こういう男性いるいる)です。対象者は、「専門性はもつが、富によって与えられる社会的権威や古い専門職の地位や企業的な権力を所持していない男性」(p.229)9人です。ヘゲモニックな気質だけれども頂点に立つことはない、共謀的な男性性がメインといえそうです。この第7章の男性たちは、ほかの調査集団よりも多様性に富んでおり、ヘゲモニックな男性性と共謀的な男性性が、ほかの男性性と同様に一枚岩ではないことがわかります。
●共謀的な男性性とは?
ヘゲモニックな投企とつながりを持ちつつも、ヘゲモニックな男性性は体現していない(第3章、p.103)。そんな状況下の男性は、量的には多いはずなのです。なぜかって、きっぱり「ヘゲモニックな男性性」を実践している男性は、実際はごく少数だからです。
たとえば、「企業でトップの社長」はヘゲモニックな男性としてパッと浮かぶかもしれませんが、その下っ端として日々勤めている大勢の、個々のサラリーマンたちの姿は最初には浮かばないのではないでしょうか。あるいは、スポーツクラブで考えてみましょう。アメリカ映画なんかでは「アメリカン・フットボール部のエース部員」が「部活内ヒエラルキー」のトップに立つかもしれません。では、フットボール部の補欠の人たちは?ほかのスポーツをやっている運動部員たちは?
こうした、ズバリ「ヘゲモニックな男性性」とは括りがたいけれども、(家父長制的な)序列のなかにいて、黙っていれば恩恵にあずかれるかもしれない男性たちって、数が多いのですよ。
彼ら自身は、自分の立ち位置をどう捉えているのでしょうか。
第7章でコンネルがインタビューした男性9人のうち約半分は、「男性あるいは男性性について、自分たちがそこからはじき出されていると感じ、男性性から距離をとっているのだと自発的に述べている」(p.231)といいます。
これはなかなか驚きです。「共謀的な男性」にみえる人たちは、遠目からみたら「ヘゲモニックな男性」に近いところにいますし、「家父長制の恩恵」を受けているようにみえます。でも当の男性たちからしたら、「男性なんて、なんか嫌だ」「ヘゲモニックな男性?僕とは遠い存在だし、近づきたくない」というふうに考えているらしいのです。彼らにとって「権威をかわし、そこから距離を保つ」(p.240)ことが問題となります。
・・・以前私が書いた『トランス男性による トランスジェンダー男性学』の感想で、60年間男性をやってきたという方から、面白い気づきをいただきました。
(以下は『トランスジェンダー男性学』の感想です)
ただ残念なのは(恐らくシス女性から見たシス男性のイメージで)
「覇権的男性性」をシス男性の多数派と見なしていること。
実際には必ずしもそうではない。
というより、現代においては「従属的男性性」や
「周縁的男性性」の方が多数派ではなかろうか。
私が本の中で見過ごしていたこと。
「共謀的な男性性」の言葉は知っていても解像度がとても低かったため、シス男性に多い男性のパターンがおそらく「覇権的」でも「従属的」でもなく、「共謀的な男性性」であろうことを見過ごしていたのです。しかし同時に、「覇権的な男性性」と「共謀的な男性性」はゆるやかにつながっていて、私は「ふつうのサラリーマン」(コンネルの指す「理性の男たち」)全般を「覇権的な男性性」の範疇として見ているなぁと実感しました。
●家父長制のしずかな維持者
家庭から受け継いだ伝統的なジェンダー二分法を再現しているローレンスは、自分の妻のことを「非常によくできた妻で、できた母親」(p.233)だとほとんど確信をもって言い切りました。その発言は、コンネルたち取材陣をいささか警戒させるほどに、実に「家父長制」的な内容です。女性のことを褒めているし、自分はまともなオトコだ、と信じて疑ったこともなさそうなそうした些細な発言は、怖いなぁとおもいました。
韓国の小説『僕の狂ったフェミ彼女』では、そういう男性が主人公です。
「自分は性差別なんてしていないし、彼女に優しくしてあげている」というのが基本スタンスです。逆に、フェミニストなんかになってしまった元カノは、一体なんでそんなに男を憎んでいて過激になってしまったんだ?と疑問を抱くわけです。「すでに男女は平等でしょう?」という現状認識をもっているため、システムや無意識の偏見の中にいかに女性蔑視が組み込まれているかは目につかないご様子。女性が性被害に遭ったとしても「それはキミが可愛いからねえ」とか「誘うような格好をしていたんじゃないの?」とか、平気でセカンドレイプするような仕草が目に浮かびます。うう、私がイライラさせられるタイプの男性性です.....。
一方で『マスキュリニティーズ』に話を戻すと、「理性の男たち」自身が望まずとも、家父長制の維持者にされてしまう様子も見えてきます。たとえば、パイロットの資格を取ったら、訓練生を制度に縛りつけるための体制に否応なく組み込まれることになります。結婚し、基地の近くに住み、仕事をし、妻と家父長制的な家庭を築いていくことを期待されるのです(p.235)。この同調圧力!
ただし、やはり指摘しなければならないのは、彼らが男性であるがゆえに確保された立ち位置でしょう。
「しかし、彼らはほとんどキャリアが構造化された仕事に就いている男性たちである。死んだり、破産されたりしなければ、彼らは、まもなく昇進し、他の労働者に対する権威を握るだろう。すでにそうなっている男性もいる。」(p.241)
こうした男女の不均衡については、多賀太さんが『ジェンダーで読み解く男性の働き方・暮らし方』(p.208)でも図式化しています。
「従属的男性」も「女性」もその構造には苦しむわけですが、しかし「従属的男性」の場合はじっと耐え続けていればそのうち「支配的男性」に地位向上するかもしれない可能性が、「女性」よりもずっと高いのです。
●「理性」が家父長制を支えている。だが「理性」で考えれば女性も参入させるべき。
アンビバレントな境遇に置かれがちな「(ヘゲモニックで、)共謀的な男性性」の男性たち。体制を憎みながらも、体制に敷かれていけば生活全般は比較的楽でいられるかもしれないのです。そんななかで「自分が」どうしたいのか、考える隙はなさそうです。
さらに、ややこしいツッコミを加えてみましょう。
彼らが勤めているような技術的な職場は、とても(異性愛の)男性的な文化でした。でも専門職の観点からみれば、仕事のためにもっとも的確な人物を確保すべきであり、であれば女性に対する「雇用機会均等」を考えるべきなのです。それが合理的な経営戦略のはずでしょう(p.241)?
女性が参入すれば、男性のクラブだった職場環境は変わらざるをえません。これまでの家父長制は揺らぐことになるでしょう(あくまでも、女性職員を召使いではなく一職員として雇う場合は!)。
こうした「職場における男性性の権威」と「技術的理性」が不一致となるときは、共謀的な男性性はどうなっていくのでしょうね。本書ではちらっと困難の一例として挙げられているだけなので先行きはみえませんが、ヘゲモニックな男性性内部の緊張を引き起こす、面白い不一致であるにはちがいありません。
「合理性は、家父長制の近代的正統化の一部である」
「しかし、(略)合理性は、ある意味ではジェンダー関係を壊す要素でもある」(p.250-251)
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