場所: Readin’ Writin’ BOOK STORE (東京都田原町の本屋さん)
2022/2/19【周司あきら & 川口遼】 見えない「男性特権」ーートランス男性の視点から
『トランス男性によるトランスジェンダー男性学』刊行記念トークイベント
後日、思いついたこと。語らなかった余白含めてぽつぽつと。
大体のニュアンスは異なることがありますが、「男性学」「男性性研究」「メンズリブ」の明確な使い分けは設けていません。
1990年代頃、男性学はもっと盛り上がるのではないかと期待されていた。“末っ子長男”のように今か今かと。
(でもちょっと期待はずれだったみたい。そもそも“母体”となるフェミニズム運動自体が、日本で続いてきたとはいえ社会全体を変えるにはまだ時間が必要だったからね)
イベントでは、『トランス男性による トランスジェンダー男性学』の目次に沿って、10分ほどでざっくり内容説明。
「第1章 トランス男性とは」は筆者的にはかなりオマケのポジションでした(でも書かないと、読者が分からんだろうということで…)。Gender Identity によるトランス男性の説明を“出来ない”のもあって、トランスの定義のなんたるかは、本の中で語っていません。
実質“始まり”は「第2章 既存の男性学と、トランス男性の不在」から。ここ今ならもっと上手く書けるのに、ともどかしいですけどね。特に平山遼さんの主張を咀嚼するには私はまだ時間がかかる。「層としての男性が層としての女性を抑圧している。男性の“生きづらさ”ってそれ、“男らしさのコスト”に過ぎないじゃーん」って言われるとき、トランス男性はどこまで“層としての男性”の一員なのでしょう。
私は本を書き始めたときと、出版間近では、もうスタンスが違っていた。もはや常連になってしまった地方のファミレスで一人孤独にしたためていたときは、自身を「誰にも顧みられない社会的マイノリティ」のように感じ、また「男の孤独」と尤もらしく語られるとき、そこに自分を重ね合わせたりしていた。(わずか4ヶ月ほどの執筆期間で、ファミレスの100ポイントを貯めました)
だが出版する頃には全然状況が変わった。もはや男性というマジョリティだったし、本を出せるということ自体特権的立場の一つのように認識していたし、今を苦しむ「トランス男性」が無数にいるなかでなんて呼吸のしやすいところにいるのかと。「トランス男性」のタイトルの中でも、切り捨てた人たちがいる。今までのトランス男性物語に置いてきぼりを喰らっていた私が、またどこか一角を都合よく切り取るのだな。わかっていたよ。
イベント直前の雑談で。
「フェミニズムに特化した出版社(エトセトラブックスさんを想定)にもお声かけしようかと迷っていたが、“フェミニズムからの卒業”がテーマの一つとしてあるのに、それは出来ないだろう」という経緯があった。大月書店さんには大変お世話になりました。
「男性特権」とは?
私はトランスジェンダーの定義もなのですが、「「自分自身で選び取った!!」」ものとして、性別を認識していないんですよね。だから社会的に男性に優位とされる状況が立ち現れるとき、個々の男性がそれを嬉しがっているとか利用したがっているとか、そんな状況とは無関係だと考えています。
たとえば宅配便に警戒する女性が本名ではない「男性っぽい名前」を利用したとして、それで「性被害への警戒が少なくて済む」という「男性的なるものの特権」をその女性が享受したとき、女性でも「男性(的なるものの)特権」を活用したことになるよねーくらいに捉えています。Twitterで男性が女性らしいと感じさせるアイコンや名前を使っていたらクソリプが来やすくなり、女性が男性名だったらクソリプが少なくて済む、なんて状況もあるでしょう。
それくらい「男性」「女性」区分はゆるやかに成り立っています。状況次第では、その区分の根拠は外見かもしれないし、戸籍かもしれないし、性器かもしれないし、体温かもしれないし、声かもしれないし、名前かもしれない(日本語ならどの漢字を使うかによっても男女差が生じうる)し、幼少時の経験かもしれないし。外見的なトランジションを経験した私としては、「眉毛」が性差を感じさせるポイントかな、と思ったりもします。
「男性特権」と指摘されるとき......
それは個々の男性の意思とは基本的には無関係なんだけれども、しかしそれが社会的に優位に働き、なおかつ「男ならその仕組みを維持せいっ」と見えない強制力が働く。
しかも「男らしくあれ」というメッセージは、公的権力と結びつきがちです。家庭やプライベートといった私的領域ではなく、公的(とされる)領域で優位になれます。だから「男らしく」あることは、結果的に「社会で」生きやすくなることに繋がります。「男らしさ」から降りられない問題は、ではその先どうやったら生きやすくなるのか誰も提示してくれないじゃん!という嘆きでもあるのでしょう。
ただ、あるべき権利が確保されている状態、差別のない状態を【ゼロ地点】と想定して、
性別関わらずそこを目指せれば、過剰に権利を付与されている【プラス地点】の男性にとっても重荷が取れて良いでしょうに。トランス男性の「女性→男性」という社会的移行を考慮すれば、トランス男性が「楽になった.....これが男性特権か.....」などと実感するとき、【マイナス地点】の足枷が取れて、ようやく【ゼロ地点】のスタートラインに立てた、という事態を指すのではないでしょうか。むしろ男性化したからといって【プラス地点】まで勝手に押し上げられたら迷惑ですらある、気がします。
しかもトランス男性の場合は、「トランスジェンダー(性別違和のある状態)→シスジェンダー(性別違和のない状態)」に近づくので、その点でも足枷が少なくなったわけです。
(なかには、男性化できたとはいえ「シス男性」との差に却って気を病む人もいますが……)(第6章では、トランス男性が「シス男性」とは異なる男性性を秘めている/求めている側面を記述しています)
そんな話。
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