映画『リトル・ガール』
今日は、きっと、全然ブログ長くないぞ!!
というのも
主人公サシャはトランスジェンダーの「子ども」であり「女の子」だから。
私はもはや「成人」して「男性」になってしまった者として、時に「保護者(親目線)」であり、非トランス女性であるためにいつでもトランス女性に対して「加害者」になり得る・なり得たことを、身に染みて感じるわけです。そして、トランスとしての“当事者意識”は底の方へしまい込んだまま、鑑賞しました。
サシャは学校やバレエ教室で女の子として生きさせてもらえないことで、涙を溜め込んだ表情を見せます。セリフそのものは母親が大部分担っている作品でした。残念ながら地元ではありませんが、パリまで行くと性別違和の診断を下し手助けしてくれる医師がいます。
「私が悪かったの?」と思い詰めるほかない母親へ、「あなたは親として正しいことをしました」と断言してくれる医師がいるのは心強いことです(性別違和の診断・治療において、当人ではない医師が実権を持ちすぎている、という指摘はあるわけですが)。
私はもうトランスキッズというより親目線になったのだろうか?と不思議な気持ちでした。
唯一自分の物語にも共通点をみたのは、サシャがバレエ教室で周りの女の子たちとは異なる衣装を着るシーンでした。“サシャ君”はおよそ女の子向けではない衣装を渡されてしまいます。
......幼稚園のお遊戯会。
私は仲の良い男友達と、二人で同じ役に立候補しようねと約束しました(その役は二人抜擢される役だったので)。
二人で挙手すると、しかしながら彼だけ選ばれて、私は「女の子なのだから」と断られました。無理だよ、と告げる担任の先生、仕方ないよ、となだめる両親、その時の冷たい食卓。
結局、女の子にしか任されない役をやるはめになり、私は黄色いフリフリのドレスを着ました。おそらく練習と本番の2回ほどしか着ていなくてただでさえもったいないのに、着たくない、捨てたいなどと言ったら親を悲しませるに違いないので黙っていました。その時の記憶。
そこだけ鮮明に思い出し。
親へカミングアウトして早期治療など到底無理だったけれども、サシャ=トランスキッズとしての「私」はかつていたのだ、と。
ただ、それだけ。
最近は、自身のマジョリティ性を見つめるような瞬間が度々あり、トランスとしてのマイノリティ性は影を潜めております。脆さは薄く薄く伸びていき、それはまるでなかったかのように。
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