※この記事では、映画『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』のネタバレがあります。
レイウィン・コンネル『マスキュリニティーズ』といい、ショーン・フェイ『トランスジェンダー問題』といい、アンジェラ・マクロビー『フェミニズムとレジリエンスの政治』といい、どれも「社会正義を考えているフェミニストの本」という共通項があって最高だな、と思う今日この頃。そしてむろん、それが必要とされる時代である現実については、そんなに褒められたものじゃないのだけど。
以下は、『フェミニズムとレジリエンスの政治』青土社サイトからの紹介文を引用。
ネオリベラリズムが蝕む女性たちの生
「仕事も家庭もあきらめないで、すべてを手に入れましょう」「欠点を受け容れ、粘り強く立ち直りましょう」「福祉に頼るのはだらしなさの証拠です」「あんなふうにはなりたくないでしょう?」――映画、雑誌、テレビにSNSと、至るところから絶え間なく響く呼びかけに駆り立てられ、あるいは抑えつけられる女性たちの生。苛烈な「自己責任」の時代を生きる女性たちに課された幾重もの抑圧をさまざまな文化事象の分析を通じて鋭く抉り出す。一九九〇年代以後のフェミニズム理論を牽引してきた著者の到達点にして、待望の初邦訳書。
マクロビーさんは『フェミニズムとレジリエンスの政治』第1章で、とくに「若い女性」の表象について語ります。そのなかで、あるべき「成功した女性像」と、その一方で失敗とみなされる「シングルマザーのおぞましさ・だらしなさ」を作り上げる、「視覚メディアの統治性」について言及しています。
その一例として、2008年の映画『レボリューショナリー・ロード』が出てくるのです。これは、『タイタニック』で共演した2人、レオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットが夫婦役で共演することで話題になりました。監督は、ケイト・ウィンスレットの実際の夫であったサム・メンデスです。
きっと観衆として想定されているのは、「女性で、ミドルクラスで、おそらく大学教育を受けた」人物だろう、とマクロビーさんは指摘します。この作品の舞台は1950年代アメリカですが、その後なぜリベラル・フェミニズムへ向かっていったのかを示す記念碑的な作品としてマクロビーさんは紹介します。
この本は全体を通して、きちっとリベラル批判をおこなっており、貧困や階級や人種の問題を置き去りにして「自己責任」だの「セルフケア(文中では「レジリエンス」という言葉が使われます)」だのに押し付ける政策や風潮が、どうして失敗だったかよくわかります。
一部のできる層に「能力を磨いて生き残りなさい」とメッセージを送ると、結局のところ差別構造は温存され、白人の異性愛の女性が「母性」に訴えた「仕事もできる、より良い母親」を目指すしかなくなり、そうしたリベラルなフェミニズムの行きつく先って右派フェミニズムですよね、とまでいいます。とても面白いです。そして辛辣でもある。これも、翻訳されて良かった一冊です。
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そしてここからの記事は、全然フェミニズムではありません。
むしろ、男性学です。私的に気になった、男性の描かれ方にまつわる愚痴です。というより、どうして「私の求めている男性像は、描かれないのか」という小言を書きたかっただけです。
私は去年2021年に、『トランス男性による トランスジェンダー男性学』を書きました。これを執筆中は、孤立した状況下で、なぜ「男性」のなかに「トランス男性」の姿はないのだろうかと、自身をマイノリティ的立場の一員として寂しく(そして苛立って)見なしていたのですよね。でも、このときの「既存の男性学」への苛立ちはべつにそれだけではなかったのだと、『レボリューショナリー・ロード』を数年越しに鑑賞して、また気づかされました。
「なぜ、トランスジェンダーの男性はいないのか」
決してそれだけではありませんでした。いや、「トランスジェンダーの男性」が単に「(シスジェンダーの)男性」として埋没できるようになると、これといって困ることがなくなるというか、そんなに自身を社会的マイノリティだと感じることもなくなるし、関心はもっと別のところに移ったのです。
「なぜ、主夫はいないのか」
「なぜ、地方在住の男性が見過ごされるのか」
「なぜ、サラリーマン中心で、アーティストの男性など出てこないのだろうか」
「なぜ、シングルファザーは登場しないのか」
「なぜ、健常な身体との結びつきが前提で、障害のある男性はいないのか」
私の目にみえたのは、サラリーマンの男性。DVの加害者となった男性。フェミニズムに嫌悪感を示す男性。ヘテロセクシュアルで、女性にモテたがっている男性。たまに「男子」や「少年」たちの話題。たいていは「夫」あるいは「父」としての男性。
なんだか、それだけに見えていました。それらは、私が知りたい「男性」像とはいえませんでした。
そしてまた、『レボリューショナリー・ロード』の話に戻りましょう。
ここでは一見恵まれた白人夫婦にみえる、レオナルド・ディカプリオ演じる夫フランクと、ケイト・ウィンスレット演じる妻エイプリルが描かれますが、でも観客にはわかるはずです。表向きの「幸せ」はしずかに崩壊へと向かっていっていること。でも、それでも私はそうした予定調和な白人夫婦の物語が見たいわけではありませんでした。
妻のエイプリルはもともと俳優志望で、いったん夢破れましたが、ある日突然「パリに引っ越そう」と夫のフランクに提案します。フランクはしばらく働かなくていいから、今のつまらない仕事を辞めて、人生を考え直して、やりたいことをやる機会にしようよ、という誘いです。迷いますが、フランクは最後には賛同します。そして、会社で「パリに行くから仕事を辞める」と伝えます。
すると、同僚はいいます。隣人も、いいます。「亭主がずっと家で好きなことをやって、女房を働かせるだって?」と。上機嫌なフランクを小バカにするのはさすがに憚られるようですが、それでも、【男性が外で働かない】という選択肢はまったく考えられないことなのですよね。逆パターンで、女性が専業主婦をやるのは当たり前に想像つくというのに。
しかもその後、夫婦2人(とその子ども)でパリ移住の準備をしている最中、エイプリルの妊娠が発覚します。その瞬間、「フランクが家庭で好きに過ごして、エイプリルが外で働く」というプランが潰れてしまい、パリ行きはなくなりました。なんて惜しいのでしょう。私は、レオナルド・ディカプリオが【主夫】を演じる姿がみたかったのに!
パリ行きの夢から覚めた物語の後半、2人の険悪なムードは募っていきます。お腹の中にいる3人目の子どもを堕ろすかどうか、という点で怒鳴り合いのケンカ状態。そして最後に、中絶可能期間を過ぎたエイプリルは、自分の手で血まみれになって子どもを堕ろそうとします。エイプリルは、自宅でそのまま亡くなります。物語は妻を亡くしたフランクと、残された2人の子どもたちが映り、幕を閉じます。
おそらくフェミニストであれば、この時代の若く美しい女性であるエイプリルの状況を読み解くのに必死になるでしょう。
でも、私が求めていたのは、男性像でした。なんて惜しいのでしょう。私は、レオナルド・ディカプリオが【シングルファザー】を演じる姿がみたかったのに!映画は、妻を亡くしたところで終わるのです。そこからフランクが、子ども2人とどうやって生活していくかは全く描かれません。
『レボリューショナリー・ロード』はそれが物語の本筋ではないから、で終わってしまうのかもしれません。でも、私は不思議でたまりません。
アメリカの研究機関によれば、「2020年に興行収入が高かった100の映画のうち、女性が監督を務めた作品の割合は16%だったことがわかった」そうです。逆にいえば、84%は男性が監督を務めた作品ということです。
直近の日本のデータではありますが、「日本映画業界の制作現場におけるジェンダー調査2022」では「2019-2022年における大手4社ラインナップ女性監督の割合」で、男性と女性の監督比率が「20:1」と出ています。逆にいえば、男性は女性の20倍も監督である確率が高いわけです。それほどに男性が牛耳っていながら、なぜ男性像のバリエーションが乏しいのでしょうか。
情けないほどに、男性自身が男性を描けていないように見受けられるこの現状。学問としての「男性学」でも対象となる男性像には偏りがありますし、そもそも男性学の研究者は限られているので幅広く扱えないのは仕方がないのかもしれませんが。じれったくてたまらないなーと、『レボリューショナリー・ロード』を観てもどかしさが募ったのでした。これほど男性が政治やメディアに溢れていても、私が見たい男性像はなかなか提示されません。
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