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短編『マティアス』感想-ずっとここにいた。ただ世界だけが変わっていく。

更新日:2022年1月26日

『マティアス』

ちくちく言葉のオンパレード。トランスジェンダーの男性 (FtM) の最初の一歩を描いた2017年オーストリア作品。U-NEXTで配信中。


ーーーー以下、ネタバレあり。ーーーー

職場は男ばかりの工場。ドイツ語は久々だったが、マティアスの言い方がなんとも絶妙だ。同僚(先輩?)に告げる“Danke”(直訳: ありがとう)も、“もう僕には構わないでくれ”と言っているように聞こえる。全くありがたくない。マティアスは、まだ暴かれたくない。いや、ずっと暴かれたくない。トランスであるとか、元女子であるとか。そんな情報は不要だからだ。

私自身が外見も名前も変えて日が浅すぎる時期から、男性として雇用された経験があるので、この不安定なマティアスはリアルだった。


マティアスは男性として新しい職場に就くも、かつての同級生と再会してしまう。

「お前そっくりの女の子が学校にいたんだ」

背筋が凍る言葉である。仕事に集中できないだろう。犯人探しの幕開け、に近い。


マティアスは名前を変えているとはいえ、かつての「女子生徒」と同一人物だと思われたらまずい。“再会”なんてまっぴらごめんである、過去を消したいトランスにとっては。新しい職場に、ちゃんとタイムワープしたはずなのに。


杉山文野さんはじめ何人ものトランス男性の体験談から成る小説『ヒゲとナプキン』では、主人公のトランス男性・イツキは改名していない。改名不要なんて楽でいいな、と改名した私は思ってしまいそうなのだが、「◯学校時代の同級生」なんかと再会してしまったら最悪だ。同姓同名なので弁解のしようがない。ゾッとするシーンである。

思い起こせば私にも“再会”したい相手などいない。“再会”してしまったら一刻も早くその場が無風で、地鳴りもなく、地球の裏側の荒野のように、一瞬で忘れ去っていく風景の一つであってほしいと願う。職場におけるホモソーシャルな描写はどれもこれも自然で、余計気味悪い。「彼女はいるか?」「ブスなのか?」男の所有物であるかのような取り扱い。


では、女性とのコミュニケーションはどうか。

マティアスが帰宅すると、彼女の家に、治療前からの知り合いであろう女友達が来ていた。マティアスを見ると、その変化に逐一驚く。言語化されていなくても、その反応がマティアスにはストレスフルなのは一目瞭然だ。マティアスにとっては、「変わったね、全然違う」と言われることも煩わしい。第二次性徴が遅かっただけで、来るべき変化が1人だけ孤独な時期に訪れたということを、過剰に可視化されたくはない。


「新しい仕事は?みんな騙された?」と女友達。

“騙された”ーーー?


彼女(マティアスの恋人)がマティアスの職場まで迎えにくると、職場の男性陣はレズビアンみたいだ、と揶揄う。ここでいう「レズビアン」とは、単に「ボーイッシュな女」というよりは、「異性愛者の女に見えない」の意味だろう。男性を愛し、男性を引き立てるような女に見えないぞ、という意味合いに違いない。マティアスにとっては、彼女が「女らしく」あってくれないと、自分が男性であるという基盤まで揺らぐ。これは単にシス男性が、恋人の女性に「女らしさ」を求めるのとは訳が違う。トランスにとっては、自分の存在証明として、「きちんと異性に」見える恋人が必要、ということだろう。

シス男性にとってはゼロからプラスへ「男を上げる」ためのトロフィーとして「女の恋人」(それも、より“女性として”の価値が高い女性)が有効とみなされているように思う。しかし、マティアスにとってはゼロの自分を守り抜くために、現状維持で男性として認識されるために、彼女には「異性の恋人」として機能してほしかったのだろう。もしこれで彼女がレズビアンで、ということはマティアスもレズビアンの“女に過ぎない”と思われたら、職場での埋没生活は一巻の終わりである。そうした男性間の緊張関係にトランスとして晒されているマティアスは、彼女とギクシャクしてしまう。


マティアスが性別移行するにあたって、「この年は私にとっても苦しい年だ」と彼女は洩らす。続けて、マグダがいてくれたらと思うことがあるとまで。

マグダとは、マティアスがかつて使用していた女性名のことだ。作中で、自分だったら一番言われたくないセリフだと思った。マティアス自身の生活の基盤が危ういなかで、「男になりゆく自分」を変わらず支えてくれると思っていた彼女がその根底を揺るがすことは、マティアスには耐え難いはずだ。彼女が突然仕事を辞めたのも、素直に彼女を心配するどころか、マティアスが「男としての稼ぎ手役割」を負うことへのプレッシャーとして感じられたのかもしれない。このところ、押し潰されそうなことばかりである。


マグダ時代から関わっていたということは、もしかしたら彼女(マティアスの恋人)はレズビアンかバイセクシュアルだったりするのかもしれない。「男性」のマティアスより先に、「女性」のマグダに出会って惹かれていたのだろう。後半のパーティシーンでも、「あんたの彼女に対する態度ってクソだよね」と女友達のサラがマティアスを刺激する。元々サラも彼女も、もしかしたらマティアス自身も、女性同性愛の文脈でそれぞれを認知していた可能性がある。そんな中で“マティアスだけが”男性としてはみ出してしまった、というわけか。


「始まり」を祝福する物語ではある。けれど、その門出はあまりにも苦い。

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