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何を期待してしまったのだろう?映画『トムボーイ』に抱く嫉妬と葛藤

更新日:2021年11月20日



 ※ネタバレあります※



『Tomboy トムボーイ』は前半と後半で印象の違う映画でした。

日本では2021年公開となりましたが、製作は2011年フランスということで。セリーヌ・シアマ監督は『燃ゆる女の肖像』(2019)より先に本作を作っていました。

『トムボーイ』はたった20日間で撮影した、低予算映画だったそうです。

(今知ったのですが、『ぼくの名前はズッキーニ』の脚本も担当されていたのですね!?)


【前半】自然で生きて。思い出したのは別の映画でした。


『トムボーイ』を鑑賞し始めて、すぐに後悔に襲われました。自分自身がなんて窮屈な“大人”になってしまったのだろう、と目の当たりにしたからです。



そこで思い浮かんだのは、別の映画でした。以下、脱線します。

それは『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』という映画です。偶然出会った男二人が、シャツも着替えず小汚いまんま数日間わちゃわちゃするロードムービー。

と、私は受け止めたのだけど、


レビューを見たら「漁師とダウン症の人の話。ダウン症でも(それに縛られて苦しむのではなく)明るく生きられることを伝えられる、画期的な作品!」みたいなことが書いてあってビックリしたものです。なるほど、私は事前情報ほぼゼロで見たから、おまけにダウン症の当事者でもなければ知り合いもいないから結びつけることをしなかったけれど、映画の価値をそこに見出す人がいるのか、と。


たしかに作中で青年ザックが「僕はダウン症だ」と表明するシーンがあるのですが、それに対して気ままな漁師は「ダウン症だから」という理由でザックを扱わない。一人の人間として見ている。ザックも、施設に閉じ込められているときには味わったことのない交流を楽しんでいる。宣伝文句としては「ダウン症でもハッピーでいられる、新しい視点の映画」と言える(政治的に、社会的にはそうです。決して間違ってないメッセージ)わけですが、登場人物が伝えていることってそれ(だけ)ではなかった。「ダウン症だから/なのに」をスッと抜けていったところにこの冒険の面白さがあったわけです。


で、『トムボーイ』前半に抱いた感想もそれです。


どっちがいいという話にしたくないのですが、私は『トムボーイ』を観た時、

「ジェンダーとアイデンティティを揺るがす作品」

「男の子のふりをする少女」

「あの!『燃ゆる女の肖像』のセリーヌ・シアマ監督作品」

といった文言を知らずに観れたらよかった、としみじみ後悔しました。


何を期待してしまったのだろう?

自分みたいなFtMの子ども時代が観れるかも、なんて勝手にバイアスをかけてしまった。もちろん事前情報があったから劇場まで足を運んだのだけど、「この役者は男の子?女の子?」「FtMなのか?限りなく男に近いレズビアンのボイなのか?」なんて疑りたくなかった。それは、作中では親の視点、ジェンダーバイアスにがんじがらめな大人の視点なのです(ミカエルの父親は例外かもしれないが)。ジェンダーの習得が大人ほどではない子ども、とりわけミカエルの妹(6歳)の対応力には驚くことでしょう。


ミカエルが外では「男の子のフリをしている」と知った翌日には、「兄」と呼んでいます。頼りになるお兄ちゃんがいるの〜いいでしょう?という具合です。ミカエルに「兄」のアイデンティティがあるかは分かりませんが、妹の素直さが一番自然で良かったです。抵抗を感じる隙がほんの一瞬にとどまっていて、あとは爽やかだった。


もう私には、そういう妹ちゃんのような素朴さが失われてしまった。ミカエルを男か女かジャッジする目線を備えてしまっているのです。いや、ミカエルは基本的に私の目には「中性的な男の子」「雰囲気の柔らかい男の子」に見えていたから、「女の子」かも?、と思うことは映像の上ではなかったんですけどね。

自宅で練習したとおり上半身裸でサッカーをして唾を吐いたり、粘土でつくったペニスを入れて泳いだり、それらはとてもヒヤヒヤするシーンなのですが、傍目からは疑いなく男の子に見えます。幼少期は男女差が少ないから羨ましい、いいなあ、ミカエルがずっとこのまま望む姿で対応できたらいいのに、と思いました。これであと数年後には生理がきたり胸が膨らんだり声変わりがしなかったりしたら地獄だろうな、と。


ミカエルと恋仲らしくなる少女リザは、ミカエルのことを「他の(ガサツで、日焼けして、平気で上裸になったり立ちションしたりするような)男の子とは違う」という感覚を抱いたようです。そして、その違和感が理由かは不明ですが、そんなミカエルに惹かれていきます。ミカエルが「女の子」だと知っていたら、キスはしなかったのでしょう。


これも言及するのが難しいところですが、「シス男性より、トランス男性の方がモテる」といった言説に信憑性があるように感じられます。「(シスジェンダーの)男みたいだけど、(ずっと男として育ってきた他の)男よりはマシ」というわけです。

リザはミカエルを男の子だと認識しているわけですが、「でも他の男の子とは違う」と感じとる背景は、これだったのではないでしょうか。シスジェンダー男性あるあるな所作を受け継いでなかったから。覇権的男性性を脱しているから。

ヘテロ女性が、シス男性ではなくてFt系の人物に惹かれる理由は、非常に感覚的なものですが、きっとあるのだと思います。



【後半】セクシュアリティの揺れなんて。見たくないけど直面させられるもの。


けれども後半では、「性」の話題に直面させられてしまいます。自由に「男の子の格好」「男の子の生活」をできた日々は終わりに近づきます。主人公は「ミカエル」ではなくて、「男の子のフリをしていた女の子」になってしまいます。もう少しで学校が始まり、ミカエルというのが本名ではなく、正体は女の子だった、とバレてしまうからです。


しかも母親も随分ボーイッシュな格好をさせてくれて理解のある人だなぁと思えたわけですが、母親が許せたのは「男の子ごっこ」までで、一線を超えて、本当に男の子になってしまうとか、女の子と恋愛するとかは許容範囲の外だったようです。


ここからは見たくないものを見せられることになります。今まで男友達として一緒に遊んでいた男子たちや、好きな女子リザの前で、「本当は女だって?証拠をみせろ!」と、これはもう定番のような、“トランスジェンダー容疑”のある人物への戒めが行われます。


『トムボーイ』は2011年作品だけど、2021年ならセリーヌ・シアマ監督はこのシーンを避けた気がします。


ちなみに私が『トムボーイ』を観た映画館は、トランスガールがバレリーナを目指す映画『Girl』を観た場所と同じだったので、『Girl』でも主人公の女の子が「本当は男だって?証拠をみせろ!」といった性的虐待を受けていたな…..と渋い顔になりました。


『トムボーイ』前半は性のあらゆることから自由であるように思えました(もちろん男の子を“演じる”苦悩はあるのだけど、あくまでミカエルの努力次第でどうにもなった)。

でも後半は、もっと性がギスギスした現実問題として立ちはだかってくるような印象でした。


ラストシーン、

ミカエルはリザに「あなたの名前は?」と改めて聞かれます。


自分はこれを決してハッピーエンドとは解釈できませんでした。もちろん、「本当は女の子なのに男の子のフリをして騙していたから」と言う理由で無視されたりいじめられたりするよりはマシです。

でも、もう「男の子」ではいられないのだとしたら、そこには断絶があるのです。ミカエルが「女の子」でも変わらずリザが受け入れてくれるなんて良かった、やっぱり性別は関係ないよね、と安心できないのは私がもはやあまりにFtM的になり過ぎたのでしょうか。

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