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トランス男性を男性学に導入する理由

更新日:2021年10月18日


タイトル通り、トランス男性を男性学の範疇に取り込む必要性について、です。

1、トランス男性が男性として生きているなら男性学の範疇に入るはず

トランス男性が男性として生きている以上、男性学で解釈が試みられないのはおかしなことではないのか?という自然な疑問が第一にありました。


これは私個人の経験から瞬時にたどり着いたことです。というのも、私は“性別移行期”が予想していたよりもとてもとても短く、あっという間に男性扱いされるように境遇が変わったからです。ありがたい幸運ですが、当たり前に戸惑うことはありました。


私のように男性社会に後から放り出されたような存在は、男性の中にどう位置すればいいのか、前例として頼れる情報が極めて少ないと感じました。男性社会でアウェイである、どうしても男性というやつを客観視してしまう自分を、それでも男性の一員としてみなすという奇妙な作業をしなければなりませんでした。男性という性を自分自身の生として引き受ける工程は、シス男性の文脈だけでは解決できないように思いました(というより、『男性学=男性が男性だからこそ抱える問題に着目すること』自体まだバリエーションが少ないので、シス男性だって窮屈そうです)。



2、トランス差別に先手を打ちたい

もう一つ打算的な理由は、トランス差別を防ぐためには、トランス男性への批判が大きくなる前に「男性」内に“陣地”を予め取っておくべきだろうというーーそれが当たるかはわからないが大きく外れはしないだろうというーー見通しがありました。


(もちろんこれで楽観視できないのは、トランス女性が被った事態を見れば推測できる通りで、たとえ手術していようが埋没しようが同じようにフェミニストであろうが、

移行先の性別の“同志”であったはずの相手から手のひらを返されることはあるでしょうけれどね。

トランス男性も日常で関わる個々のシス男性から排他的な態度を取られずに、また、そういった「シス対トランス」であるかのような論調が一人歩きせずに、現状維持なら概ね問題ないでしょう。


ただ、今が大丈夫だからと放置するよりは、早い段階で「トランス男性は男性として生きていますが、その上でこんな問題意識を抱えています」とさらりと男性側の立場の一員として言ってのけることが大事だと考えました。

このことが、対になるであろうトランス女性を、逆に女性の一員として後押しすることに繋がればなお良いのですが。とりわけ男性学・男性性研究の教授などが「(トランス男性の方ではなく)トランス女性を責任持って男性の範疇で考えてみましょう」なんて言い出さないうちに。)



3、女性側の席(として考えられる立ち位置)を退く必要性を感じていたため

また、男性化していくにつれて女性との距離感は考えざるをえませんでしたし、老害になる前に席を退くべし、という美徳を自分自身の中に育てていたという面もあります。


もはや女性差別に括られる体験をする必要がなくなったトランス男性ならば、いつまでも「私は以前、女性差別に該当する差別を受けたことがありますよ」と告発していられなくなるのです。というのも、未だ現在進行形で女性差別の被害者となり続けている女性(や、それに準ずる人)からしたら、「いやいや、もはやあなたは差別される当事者として生きていないのに、リアリティを持って語ることはできないでしょう」ということで、かつては共闘の相手だったかもしれない方々から煙たがられる可能性さえ出てくるからです。


ではトランス男性の抱える課題があるとき、共闘できる相手は(これまでのようにLGBTQコミュニティが有効なのはもちろんですがそれだけではなく)多数派とみなされてきた男性の中にいるのではないでしょうか。埋没していたらトランス男性自身もマジョリティ男性として自動的にみなされることがありますし。


フェミニズムは男女同権の運動といいます、そうなのですが、そこでは男性内の多様性や男性内の意識や男性差別について語られることはほとんどないのも指摘できることでしょう。男性は一つのカテゴリーとして、女性の対比に置かれているだけに見えます。それ以上解像度が上がりません。すっかり男性になっているトランス男性を記述するのも限界があるに違いないでしょう。


であれば、男性学はどうでしょう?

目的は同じで、手段を変えよう、仲間も新しくしようという話をしています。


.......1、2、3でとっかかりとなった3つの領域「男性学」「トランスジェンダー」「フェミニズム」は、いずれも一人のトランス男性が当事者意識を持って関わる可能性が十分あるテーマです。 しかし私が心苦しかったのは、その3領域を繋ぐヒントがなく、私の書いた内容をチェックしてくれる先導者も見当たらなかったことでした(要所要所で知人からアドバイスはもらいましたが)。人生は連続しているのに、ぶつ切りのヒントにしか辿り着けなかったのは残念です。.......



と、

ここまで書いてセルフツッコミが入ります。思考の話はここまでにして。


先日選挙のお手伝いをする機会がありました。そこで、はて?私がやろうとしていることは、自民党はキライだがだからこそ内部から変えてやるために自民党に入りそこで生き抜こう、としているのと同じような無謀なことでは?と思ったのです。


ここでいう「自民党」は、「マジョリティ男性」に読み替えてください。大体のニュアンスは伝わるかと思います。あえて「シス男性」なのではなく「マジョリティ男性」という集団が浮かびました。上記の例えはなんだかとても茨の道で、息がしにくそうです。協力者が必要でしょう。


もしここまで読んでくださった男性がいるのならば、

ごく当たり前にトランス男性が男性として存在していることは、今あなたが酸素を取り入れているのと同じくらい日常的なことで、かといってまい瞬間「お、今酸素を取り入れたぞ」などと意識していないくらい、別段過剰反応する必要もなく、けれど共存するためには欠けてはならない存在なのだとぼんやり気に留めていただけたら嬉しいです。別に明日にはこのことを忘れてもかまいません。


でもトランス差別をしている人がいたり、何かの節にトランス男性の存在を抹消しているような世間の風潮を感じたり、あるいは悲劇の道化者としてしか登場しない妙な場面があったら、それはおかしなことだぞと、ふと思い出していただけたら。

はたまた、シスヘテロ男性とは少し違う視点を保持している男性として、どこかの場面でトランス男性が顔を出そうとしていたら、後押ししてみてください。きっと今より「男性」像は面白くなります。

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