11月25日は「女性に対する暴力撤廃の国際デー」である。
◯回想ーー「女性」
「基本的に女性は男性を警戒している」
(『モテたいと思っている男って、なんであんなに気持ち悪いんだろう』大島薫)
女性ポジションに置かれた人間(つまり女性と同一視される状況の一部トランス男性も含む)は、おそらく毎秒無意識のうちに刷り込まれている。基本的に男性(に見える人間)すべてを警戒していたはずだ。そのように教育されてもきた。
自身が世間的に男性化していくにつれ、その大原則を忘れそうになる。
というより、今のところ完全に忘れはしないが、女性側が“毎秒”男性側を警戒しているにも関わらず、男性側(の私)が1秒でも忘れていたら、それはもう不均衡だ。その一瞬ですら、距離感を間違えたら相手に恐怖心を抱かせるに足る。
先日の話。通勤で電車を使うことになった私に、母は「痴漢冤罪に気をつけなねー」と冗談めかして言った。「痴漢に気をつけな」から「痴漢冤罪に(略)」への変化。
かつて世間的に女子高生だった頃、クラスメートの女子が毎日のように電車内で痴漢に遭っていた。あまりにも日常だった。その、加害者、性犯罪者と同じ性別を割り当てられる者に今や、なった。
そして稀に、私の中にも芽生える。
「目の前の女性より、私の方が強くなってしまったんだな」という素朴な体感。ただ薄ぼんやり“判る”こうした感想が、暴力だとは思わない。けれども暴力の種はいとも簡単に撒かれる。「自分の方が強い」のだと薄ぼんやりと思い続けた男性は、そうではない存在として女性を劣位に置き始めるだろう。
◯習得ーー『男性の非暴力宣言 ホワイトリボン・キャンペーン』
軽く紹介。
「男性の非暴力宣言」は暴力から男性を、そして女性を解放するために、為された。
暴力に性別は関係ない、と言いたいところだが、パートナー間における暴力の多くが男性から女性への暴力だという実態がある。まず男性の問題として暴力を考える必要がある。ということだ。
......暴力の原因は何か?
男性を縛っている心理的な要因を挙げるならば、主には優越志向、所有志向、権力志向の三つが挙がる。また一方で、「愛しているから暴力を振るう」という奇妙な理由づけも性暴力を振るう男性に見られるものだという。つまり、男性のストレスを女性にはやさしく包み込んでほしい、という男性側の“甘え”だ。「支配と依存」が男性の性暴力の背景にあるのだろう。
1991年カナダで始まった「ホワイトリボンキャンペーン」(WRC)は60カ国以上へ広まり、日本では2012年に関西でスタートした。
「男性から女性への暴力」と言われると、男性は直接の被害者として浮上しないし、加害した覚えもないのであれば当事者性が出てこない。無関心でいられる。だが、そうした大多数の「暴力は振るわずとも、女性に対する暴力に沈黙している男性」を変えていくことが必要だ、というのが男性主体のホワイトリボンキャンペーンの成立背景なのだ。
特にオーストラリアで盛んだという。なぜマッチョな男性像が歓迎されそうなオーストラリアで、非暴力系男子が歓迎されたのか?そこには、随所に「男心をくすぐる工夫」があるそうだ。WRA(ホワイトリボンオーストラリア)では、積極的に“男らしい”イメージを活用している。ホワイトリボンのロゴもそうで、他国の丸みを帯びたデザイン【左】に比べて、オーストラリア【右】は角張っていて“男らしい”!
いやいやそんなふうに“男らしさ”に拘らずに性暴力に反対しようや、とツッコむのは簡単だが、
実際のところ、マスキュリンなイメージ戦略は成功らしい。個人的には私自身も“男らしい”ホワイトリボンの方が欲しいくらいだ。まんまと乗せられている。が、当事者である男性を巻き込むにはそれが肝心だと......。
◯苦悩ーー男性側になって挑む、割り勘問題
実際のところ「殴る・蹴る」だけが暴力の範疇ではないのはもはや馴染み深い前提だろう(経済的・心理的な暴力もある)が、どうしようもない場面ですら私は“暴力性”を感じていた。
ここでいう“被害者”=女性ポジションとしては、男性と近距離であるだけで警戒心が強まったものだった。電車の中と夜道はとりわけ気をつかった。というか、常に警戒心を持たねばならなかった。
ここでいう“加害者”=男性ポジションとしては、何を今さらくだらない、と言いたいところだが「割り勘問題」を思い出した。男性(である私)と女性である相手がいっしょに食事に行った際、支払いをどうするか。
男性になって初めて女性(カミングアウトしていない相手)と二人で出かけたとき、かつての男性陣のふるまいを思い出していた。彼らは、(女性ポジションである)私に対して奢ってくれる人が多かったように思う。別に奢ってくれなど望んでもないときも、なにかの決まりのようにそうするのだ。ということは、今や男性である私も、女性であろう相手に奢るべきだろうか?
1度目は良かった。運転してくれたお礼に、と奢ったからだ。
2度目は失敗だった。これといって理由もないのに奢ったのは、相手の意思を尊重していないようだった。この、「男なんだから僕が奢ってあげますよ」という態度(本人にその意思がなくとも)は、女性視点ではある意味“性暴力”と地続きだろう、とすぐさま感じたのだ。相手は喜ぶどころか、失望しているのかもしれない。一方的な都合で、貸し付けているような感覚を相手に生み出させてしまうのは、男女間の不均衡を助長する。お金を媒介として、男性が優位に立つ構造。「こんなことまで」と言われようが、“こんなこと”まで(性別移行のプレッシャーによって)気になってしまった。
そこで改めて向き合う。相手が女性である場合、彼女がこちらを警戒していることを前提にふるまうことが(男性と過ごす以上に過度に)求められる(最低ラインとして、完全密室は避ける、大声を出さない、わけもなく身体に接触しない等)が、
また同時に「相手が女性だから」と良かれと思って特別扱いすることによる不均衡にも注意が必要だ。
なぜこんなふうに男女差が生まれてしまうのか、と飽き飽きしてくるほどだが、ひとまず眼前にあるジェンダーの違いは無視できないものらしい。ただ目の前の相手をひとりの人間として接するだけのことに、途方もなく差が生まれることがあるのだから。
◯覚悟ーー「男性」
「わかる」と「わからない」を反芻しながら、『男性の非暴力宣言』を読んだ。
きっとこれからも、シス男性主体に動き出す男性運動に対しては「わかる」と「わからない」を繰り返すんだろう。徐々に「わかる」に侵食されながら。
※上記文中の「女性」にはトランスジェンダーの女性(MtF)ももちろん含んでいる。
※「ホワイトリボン」と名のつく運動は他にも存在する。
※スコットランド警察による「あんな男にはなるな」という男性から男性への性暴力防止キャンペーンのリンクを貼っておく。Twitterで話題になっていた。
うまく言葉にならないのだけれど、私は「被害者」にも「加害者」にもなりたくはない。逆説的に言うと誰も「被害者」にも「加害者」にもしたくない。しかしこの感覚をストレートに表現しようとすると「女(被害者)」にも「男(加害者)」にもなりたくはないと表現してしまっているし、表現していると受け止められてしまう。社会のルールをどうするかというのとは別に、誰しもが「被害者」になる可能性と「加害者」になる可能性との選択を迫られる。どちらも選択したくないのに、選択(性別役割二元論への埋没)をしないと両方を選択したことになってしまう。これはシスジェンダーであれトランスジェンダーであれ変わりはないのだが、声をあげる者のそれには常に両義性が付きまとってくる。男らしさも女らしさも元来持ち合わせているのに、表現しようとすると途端に窮屈になってしまう。さとみ